ああ、ひたすら引用だけ掲げた「言語ゲームと家族的類似性」だけれど、このウィトゲンシュタインの言語ゲーム[Sprachspiele]と家族的類似性[Familienähnlichkeiten]の話はウサギ-アヒル図の話でもあるんだよ。 |
人はこれをウサギの頭とも、アヒルの頭とも見ることができる。すると私は、あるアスペクトの「恒常的な見え」と、アスペクトの「閃き」とを区別しなければならない。像はすでに私に示されていたが、私はそこにウサギ以外の何ものをも見てはいなかったということがありうるのだ。 |
Man kann ihn als Hasenkopf, oder als Entenkopf sehen. Und ich muss zwischen dem ›stetigen Sehen‹ eines Aspekts und dem ›Aufleuchten‹ eines Aspekts unterscheiden. Das Bild mochte mir gezeigt worden sein, und ich darin nie etwas anderes als einen Hasen gesehen haben. |
(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』2部11章) |
で、この文の前段にはこうあるのだから。 |
わたしはある顔を観察していて、突然、その顔がある他の顔と似ていることに気づく。わたしは、その顔が変わったわけではないのを見て分かっているが、にもかかわらずそれを違うふうに見ているのである。こういった経験をわたしは「アスペクトの気づき」と呼ぶことにする。 |
Ich betrachte ein Gesicht, auf einmal bemerke ich seine Ähnlichkeit mit einem andern. Ich sehe, daß es sich nicht geändert hat; und sehe es doch anders. Diese Er-fahrung nenne ich »das Bemerken eines Aspekts« |
(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』2部11章) |
で、柄谷はこの話を地と図の話と結びつけて、フッサールに代表される現象学批判をしている。 |
「地」と「図」が基礎的であるとしても、それらが相互に反転してしまうことを禁止できないところにある。最も基礎的な与件である「一つの地の上の一つの図」ということの決定不可能性が疑われないのは、現象学的方法の限界である。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年) |
さらに、言葉の意味自体が、この地と図の審級にある。 |
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年) |
「差異化」は、われわれの考えでは、ある差異的なシステムそれ自体への差異化、つまり自己言及・自己関係化にほかならない。そして、それが自己言及的なシステムであるからには、いわば地と図をはっきりと決定することはできない。(柄谷行人『隠喩としての建築』) |
このところ「リベラル」という語にこだわっているから、それに関して言えば、現在、最悪の意味合いを持ちうるリベラルと最善の意味合いをもちうるリベラルは常に反転するのだな。
これが、「西部邁の言葉いくつかーー保守・民主・アメリカ・左翼・リベラル」の後半で主に柄谷を引用して記した《重要なのは「リベラル」という語は、現在、悪の根源と見做されている「世界資本主義的」意味合いをもつと同時に、究極の善である「世界史的理念」でもあることだろう》だよ。
……………
さらに柄谷はウィトゲンシュタインの家族的類似性をマルクスの価値形態論に結びつけいる。
「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。 理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。 マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』第四章「世界の境界」PP.69-70, 1986年) |
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現代数学は、集合論と記号論理学によって、全数学領域を統一的に基礎づけることができるというたてまえに立っている。実際には、集合論のパラドックスからはじまり、ゲーデルの証明によってとどめをさされたように、それは不可能なのだ。むろん、このような“基礎論”は、実践的な数学者=発明家にとっては無関係である。ある数学者はいっている。《われわれは、ウィークデーはプラトニストであり、日曜日に形式主義者となる》(デイヴィス、ハーシュ共著「数学的経験」)。 ウィトゲンシュタインは、そのようなあいまいさを批判したりはしないだろう。新手を生みだす模士が、碁盤のなかに“真理”が隠れていると信じていたとしても構わないように。ウィトゲンシュタインが批判するのは、現にある数学のさまざまな証明体系の“背後”に基礎的なものがあるという考えである。これは、日常言語の“背後”に、より基礎的な言語があるという考えと同じなのだが。 数学をさまざまなゲーム(規則体系)とみなしたとき、それらに通底するものはないのだろうか? この問いは、言語をさまざまな言語ゲームとしてみるとき、「言語ゲームにとって本質的なものは何か、したがって言語の本質は何か」という問いにいいかえられる。それに対して、ウィトゲンシュタインは、次のようにいっている。 |
《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』) この類似性は、「家族的類似性」とよばれている。それは、「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」である。 わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけるとこができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じような重なり合い、交差し合っているからである。----だから、わたくしは、「ゲーム」が一つの家族を形成している、と言おう。 同様にして、たとえば数の種類も一家族を形成している。なぜわれわれはあるものを「数」と呼ぶのか。おそらくそれが、これまで数と呼ばれてきた多くのものと一つのーー直接的なーー連関をもっているからである。そして、そのことによって、それはわれわれもまたそのように呼ぶ他のものとの間接的な連関をもつようになる、と言うことができる。そして、われわれは、ちょうど一本の糸をつむぐのに繊維と繊維をよりあわせていくように、数というわれわれの概念を拡張していくのである。しかも、糸の強さは、ある一本の繊維が糸全体の長さをつらぬいているという点にあるのではなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているという点にあるのである。》(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」) |
この「家族的類似性」は、右の例では、数学が多数体系的であること、したがって、たとえば「数とは何か」を本質的に定義することはでいないということを意味している。むろん、このことは、言語ゲーム一般についてもいえる(数学も言語ゲームの一部である)。言語ゲームは、むしろ「言語とは何か」という本質的な問いをしりぞけるものなのである。なぜなら、その問いは、言語ゲームの多様性を切りすててしまおうとするからだ。 すでに第四章で示唆したように、「家族的類似」の問題は、社会的な過程(共同体と共同体の間の交換)のなかで、けっして、共通の本質、あるいは、通約不可能性が見出されないこととつながっている。マルクスは、商品の相対的価値表現の連鎖体系を「拡大された価値形態」とよんでいる。そこには、家族的類似と同様に、ついに中心あるいは本質が見当たらない。マルクスは、その「欠陥」について次のようにいう。 《第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が他のそれを、それからそれへとつないでいく連鎖は、ひきつづいてつねに新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たな商品種にひきのばされる。》(「資本論」) したがって、マルクスは、一般的価値形態または貨幣形態、すなわち中心としての一商品が等価形態の位置を排他的に独占する形態の不可避性を説く。だが、この「欠陥」は、実はそんことによって解消されはしない。なぜなら、それこそが「社会的過程」だからである。逆に、貨幣形態は、すべての商品に共通の本質があるかのような仮象を与え、また無制限に連鎖して交叉するものを閉じられた一体系のように考えさせる。 |
ウィトゲンシュタインが家族的類似を強調するのは、事物の本質あるいは原理を問う哲学が、貨幣形態と同様に、われわれのコミュニケーション(交換)の、“社会性”を隠蔽してしまうからである。「言葉の意味はその用法である」というウィトゲンシュタインの言葉は、プラグマティックな意味で理解されてはならない。それは、内的な意味(私的言語)から出発するかわりに、《他者》との交換というレベルに立ちまどるべきことを主張しているのである。日常言語学派とちがって、彼の認識は“倫理的”である。(柄谷行人『探求Ⅰ』「家族的類似性」pp.144-148) |
で、ここからカントの経験論と合理論の話が出てくる。
一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
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重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしに存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
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思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム」2006) |
質問してはいけない
なぜなら と師は言われないが
わからない者がする質問は
その水準での誤解にもとづいている
それに応えれば その水準から出られなくなる
そしてわかれば 質問してもむだだとわかる
質問はなくなっても 問いはのこる
あるいは答のない問いだけが生きつづける
あるいは、次の古井由吉のような言い方もできるだろうよ、 |
日本の言語上の価値観がこうも崩れるとは思わなかった。そういう予測があったら別な生き方したかと思うね。 だからいまちょっともう無念の思いで見てるんだけれども、世上にいろいろ問題が起こるでしょう。その問題がほとんど、言語的な欺瞞から成り立っているのね。これはちょっと僕なんか には気味悪く思われる。俺は何していたんだと思うね。(福田和也対談「海燕」1996 年 6 月 号) (福田和也対談「海燕」1996 年 6 月号) |
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文学は世間の言語と無縁のはずがないから、文学も現実と共に貧しくなるのは当たり前。 いまほど言葉に実質がなく、言葉の枯渇が感じられることはないのではないか。言葉に信頼がないと、言葉をひっくり返して新しい意味を表現しようとしても、もどかしいだけ。まるで言葉の兵糧攻めにあっているようだ。(古井由吉「朝日新聞」2002 年 5 月 24 日夕刊) |