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2025年9月3日水曜日

中心の空洞に向けての祈りのみの身

 


Xについて何か発言すれば、意見を言えば、自分はちゃんとXを意識している、Xについて考えている、他者に向かってそう言いたい人が、ウエブのおかげで増えているのかと思う。行動はしなくても、コトバにすれば免責される、そんな気持ちがひそんでるんじゃないかな。(谷川俊太郎「日記」2015年12月24日)


………………


さて私は巷間で、特にツイッター(X)で、ある話題が賑わっているとそれを外したくなる悪癖(?)があるのだが、そのとき向かう先はまずは「中心の空洞に向けての祈り」である。


ーーKさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか?


――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので……


ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。


――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう?  とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。


――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう?  ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。


――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」1994年)






場合によっては、《低劣な「人間らしさ」》に踏み込むときもある。

それが吾良のライフスタイルのひとつで、映画作りの力にもなった小物集めの才能を発揮すると、魅力あるジュラルミン製の小型トランクをつけてくれた。それには五十巻のカセットテープが収められてもいたのである。吾良の映画の試写会場で受けとり、持って帰る電車のなかで、白い紙ラベルにナンバーだけスタンプで押したカセットを田亀に入れてーー実際、そのように機械を呼ぶことになったーー。ヘッドフォーンのジャックを挿し入れる穴を探していると、つい指がふれてしまったか、テープを入れると再生が自動的に始まる仕組みなのか、野太い女の声の、ウワッ! 子宮ガ抜ケル! イクゥ! ウワッ! イッタ! と絶叫する声がスピーカーから響き、ぎゅう詰めの乗客たちを驚かせた。その種の盗聴テープ五十巻を、吾良は撮影所のスタッフから売りつけられて、始末に困っていたらしいのだ。


かつて古義人はそうしたものに興味を持つことがなかったのに、この時ばかりは、百日ほども田亀に熱中した。たまたま古義人が厄介な鬱状態にあった時で、かれの窮境を千樫から聞いた吾良が、そういうことならば、その原因相応に低劣な「人間らしさ」で対抗するのがいい、といった。そして田亀を贈ってくれたついでに、確かに「人間らしさ」の一表現には違いないテープをつけてくれたのだ、と後に古義人は千樫から聞いた。千樫自身は、それがどういうテープであるかを知らないままだったが……(大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』2000年)



このところ、いくつかの「人間らしさ」の試みの投稿をしたのだが、とはいえどうもエロ度が足りない。


もはや再びやって来ないんだろうか、真の「夏の日々」は。もはや祈りしかないんだろうか。





もはや「神秘的観想」のみなんだろうか、たいしてヤッテないのに。

しかし当時のぼくの生活はとても波乱に満ちたものだった …ほんとうにめちゃくちゃだった …放蕩? そのとおり! ひっきりなしだ …午後、夕方、夜…同時に、三、四人との関係、行きずり、娼婦、なんでもござれ、乱れた暮らし …信じられないくらいの無頓着、やりたい放題やったのだから悔いはない …バー… いくつかの特別の施設 …


…女漁り …ぼくはいつもこの上なく若々しかった …結局、男たちが五十や六十で苦労して知ることを、ぼくは二十か三十でやってしまった …彼らは、わざとらしい気難しさから輝きのないゆるんだ衰弱へと進歩するが、ぼくの方は、気違いじみた放蕩から神秘的観想へと移る …人それぞれに道がある…(ソレルス『女たち』1983年)



「幸枝さん」が現れてもダメなんだろうか?


幸枝さんがあらためて私に話したのは、もうみんなが知ってることです。私たちは、それを糾弾しもしたわけですが、幸枝さんの側からの念入りな話を聞いて思ったのは、こんなふうだったならば、事態があれだけ険悪化する前に、手のうちようもあったんじゃないか、ということ。その気持が、私の主題、「性欲の処理」になったわけです。


幸枝さんが、「集会所」に引き起こした厄介事。それは彼女がテューター・小父さんに感情的な傾斜を深めたことです。ついには寝室に忍び込むようになった、というのがクライマックスでした。ことを荒だてたくなかったから、なだめようとして関係したと、テューター・小父さんは弁明したのでしたが、かれが幾度も幸枝さんの要求に応えたことから、問題はさらに厄介となったのです。幸枝さんはテューター・小父さんの配偶者になるといいだし、「集会所」での権力を確保しようとしました。……


幸枝さんの、電車のなかでの打ち明け話…幸枝さんは、「集会所」に来る前、ボーイ・フレンドと肉体関係がありました。両方の家族に干渉され、関係が行きづまったこともあって、「集会所」に来ることになったそうです。そしテューター・小父さんの「説教」に救われ、正式に会員となったわけですから、彼女がテューター・小父さんを敬愛していたことは確かなのです。


けれども、はじめから肉体関係を結ぼうという気持があったのではなかった。むしろ男性としては魅力のない、ずっと年上の小父さんという感じだった。…ところが「集会所」では、若い男性とのつきあいがないわけですね。…


そのようにして日をすごすうちに、幸枝さんは、頭のなかの考えというより、腰の奥の力に押しまくられることになりました。とうとうある晩、---もうだめだ、これ以上ガマンできない!と思ったそうです。そしてテューター・小父さんの寝室へしのび込んだのでした。いったん関係が生じてみると、テューター・小父さんにこれまでとちがう魅かれ方をするようになった。仲間がテューター・小父さんに親しげにふるまいをすると、美代ちゃんに対してすら、嫉妬して邪慳なことをいってしまう。それは私たちが周りで見て来た通りね。


私は幸枝さんの話に、大切なことがふくまれていると思いました。私たちにも起こりかねないことですから。つまり頭のなかの考えより、腰の奥の力に押しまくられる、ということね。その結果、暴発して、誰かが新たにテューター・小父さんの寝室に押しかけないともかぎりません。さらにテューター・小父さんの方で、その気になるということがあるかも知れないわけです(笑)。


そこでどうすればいいか? はじめにいったとおり、身も蓋もない話ですが、腰の奥の力を圧力抜きしなければなりません。そのためには、マスターベイションが手軽です。圧力抜きというのは、ニューヨークのハイスクールで使われていた言葉の訳ですけれど…… マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちにはあてはまりません。


こうした考えに立って、ということですが、私がことごとしく「性欲の処理」というような「説教」をするのは、「集会所」の生活の仕方を考えてのことです。個室にひとりで眠るというのじゃなく、二段ベッドの暮しですから、腰の奥の力を圧力抜きするとして、他の人たちの耳を気にかけるのは不健康だと思うからです。「集会所」の活動、とくに「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。


なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』1989年)




蚊居肢子の神秘的観想は実はこっち形なんだがね


どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。〔・・・〕

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。〔・・・〕


自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)


何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE , 1998)



最近のAVってのはよくないかもしれないよ、すぐさまヤリたい女ばっかりでさ、ある種の男たちはあの女のイメージを見て尻尾を垂らして逃げるようになってんじゃないか。昨日「エロスの力を削いだフェミニズム」という投稿をしたばかりだがね、フェミニズムだけじゃないね、エロスの力を削いだのは。


せめて『危険な関係』タイプの女として演技してくれないとな、


私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。


私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。(坂口安吾『三十歳』1948年)


どんなに身をまかせたいと焦っても口実がいります。ところで男の暴力に負けたように見える口実ほど女に都合のいいものはありません。じつを言うと私などいちばんありがたいのは神速にしてしかも一糸乱れぬ猛烈かつ巧妙な攻撃です。こちらが付込むべきところを、逆に尻ぬぐいせねばならないような間の悪い思いをけっしてさせぬ攻撃⋯⋯女の喜ぶ二つの欲望、防いだ誇りと敗れた喜びを巧みに満足させてくれる攻撃です。(ラクロ『危険な関係』1782年)