まず中井久夫による良心をめぐる記述を掲げる。実に勉強になる文である。
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フランス語でもスペイン語でもイタリア語でも、「良心」という言葉と「意識」という言葉とは同じである。日本人はちょっと当惑する。 これはラテン語の conscientia(コンスキエンティア)にさかのぼる。それが各国語に語形変化しただけのことである。聖ヒエロニスムが聖書をラテン語に訳したとき、ギリシャ語の syneidesis(シュネイデーシス)の訳に使ったのである。このギリシャ語は、もともとは「共に知ること」という言葉で、「他人(の傷みなど)を知ること」を指し、次に自己認識をも指した。キリスト教に入って初めて超越的なものとの関係の意味になって、「神に知られるもの」という意味で「良心」と「意識」とが同じ言葉で表されるようになった。「良心」と「自己認識」はひとつである。だから、「無意識」が自分の行動を決定しているというフロイト派精神分析の考えに、西欧の人が大変な抵抗を覚えるのだと私は思う。「自分が知らない自分の内なるもの、すなわち神に自分の責任をもってみせられないもの」に動かされているなんて、とんでもないことである。それは内なる「悪魔」ではないか。 |
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ドイツ語の意識は「ゲヴィッセン」といって「知っていることの総体」である。ルターが聖書をドイツ語に訳するときに「シュネイデーシス」につけた訳である。意味からは「意識」に近いようであるけれども「良心」を指す。「自分が知っていることの総体」は、神との関係において初めて「良心」の意味をもつことができる。我々なら、だれも見ていなくても「天知る、地知る、己知る」ということが一番近そうである。 なるほど、英語では「良心」 conscienceと「意識」consciousness とを区別するけれど、前者がフランス語同様、元来は双方を指していたのであり、後者は学術用語として一七世紀に生まれた、ずっと遅い言葉である。「良心」と「意識」の分離はどうもプロテスタンディズムの成立と深い関係がありそうである。 |
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「意識」と「良心」とはいまでもフランスやスペインやイタリアでは、強いて区別するときには「心理的」「道徳的」と形容詞をつける。そういう近さは、日本語からは見えてこない。「意識」は漢語であるけれども、大乗仏教の翻訳によく使われた言葉である。 日本語の「良心」という言葉は、元来は『孟子』に出てくる言葉である。キリスト教は人間を罪深い存在とするから、孟子の性善説とは本来非常に違うものであるけれども、井上哲次郎という、明治初期にたくさんの哲学用語を日本語に訳した人が、ドイツ語の Gewisswen を訳すときに『孟子』から引っ張ってきたという。聖書の日本語訳のほうが先かもしれないが、私にはそこまで調べられない。 このように、西欧の「良心」は神と向かい合う自己意識である。神の姿が遠くなった近代西欧において、意識は「自己意識」を指すものになった。ここで、近代哲学においてもっともやっかいな問題の一つ、「他者問題」すなわち「他者認識が可能か」という問題が出てきた。「神のごとき自己が認識する自己等価物」という意味では他者は認識できないと私は思う。ベルギーのルーヴァン大学を中心とする新トマス主義のカトリック哲学は、「自己」を「他者からの贈り物」とするそうだが、この考えは、私にはどこか真実さが感じられる。 |
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逆にキリスト教以前にさかのぼれば、コンスキエンティアもシュネイデーシスも「他人(の痛み)を知ること」であった。オクスフォード・ギリシャ語・英語大辞典の最初の例は産婆が(産婦の)痛みを共に感じることに関するものである。だから、だぶん、そんなに高尚なことでなくてよいのだろう。私は、人がけがをした瞬間、「あ、痛っ」と叫んでしまうことが何度かあった。こういうのもシュネイデーシスなのだろう。だとすれば、神を介する以前の古代ギリシャ・ローマの倫理的基礎は惻隠の情とそんなに遠くない。(中井久夫「ボランティアとは何か」初出1998年『時のしずく』所収) |
ゲヴィッセン[Gewissen]とあるが、ここではニーチェとフロイトがこの語をどのように使っているかを見てみる。
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(『道徳の系譜』の)第二論文の提供する真理は良心の心理学だ。良心とは、一般に信じられているように「人間の内なる神の声」などではない。ーーそれは残虐性の本能であって、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので一転して内面に向かったものだ。 |
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Die zweite Abhandlung gibt die Psychologie des Gewissens: dasselbe ist nicht, wie wohl geglaubt wird, »die Stimme Gottes im Menschen« – es ist der Instinkt der Grausamkeit, der sich rückwärts wendet, nachdem er nicht mehr nach außen hin sich entladen kann. |
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( ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」[道徳の系譜]の節、1888年) |
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外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の「魂」と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたごとく薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外へのはけ口が堰き止められてしまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーわけても刑罰がこの防堡の一つだ――は、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」schlechten Gewissensの起源である。 |
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Alle Instinkte, welche sich nicht nach außen entladen, wenden sich nach innen - dies ist das, was ich die Verinnerlichung des Menschen nenne: damit wächst erst das an den Menschen heran, was man später seine »Seele« nennt. Die ganze innere Welt, ursprünglich dünn wie zwischen zwei Häute eingespannt, ist in dem Maße auseinander- und aufge-gangen, hat Tiefe, Breite, Höhe bekommen, als die Entladung des Menschen nach außen gehemmt worden ist. Jene furchtbaren Bollwerke, mit denen sich die staatliche Organisation gegen die alten Instinkte der Freiheit schützte - die Strafen gehören vor allem zu diesen Bollwerken -, brachten zuwege, daß alle jene Instinkte des wilden freien schweifenden Menschen sich rückwärts, sich gegen den Menschen selbst wandten. Die Feindschaft, die Grausamkeit, die Lust an der Verfolgung, am Überfall, am Wechsel, an der Zerstörung - alles das gegen die Inhaber solcher Instinkte sich wendend: das ist der Ursprung des »schlechten Gewissens«. |
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(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文16節、1887年) |
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次のフロイトは上のニーチェと同じことを言っている。 |
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われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。それは、ちょっと想像もつかぬほど非常に奇抜だが、考えてみるとごく当り前の方法である。われわれの攻撃欲動を取り入れ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃性をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。 |
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Was geht mit ihm vor, um seine Aggressionslust unschädlich zu machen? Etwas sehr Merkwürdiges, das wir nicht erraten hätten und das doch so naheliegt. Die Aggression wird introjiziert, verinnerlicht, eigentlich aber dorthin zurückgeschickt, woher sie gekommen ist, also gegen das eigene Ich gewendet. |
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(フロイト『文化への不満』第7章、1930年) |
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そしてこのメカニズムの説明は次の通り。 |
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人間にはもともと、いわば生まれつき善悪を区別する能力があるなどという説は無視していい。その証拠に、いわゆる「悪」は、自我にとってぜんぜん不利でも危険でもない場合も多く、かえって反対に、自我にとって望ましいもの、楽しいものであることもある。つまり、ここには自我以外の力が働いており、何が善であり何が悪であるべきかを決定するのはこの外部の力なのだ。人間が自身のイニシアティブでは同じ結論に達しなかっただろうということを考えると、人間がこの外部の力に屈するについては、それなりの動機があるにちがいない。そしてその動機はすぐ見つかる。それは、人間が無力で他人に依存せざるをえない存在だという事実であり、他人の愛を失うことへの不安と名づけるのが一番適当だ。自分が依存せざるをえない他人の愛を失うことは、さまざまな危険にたいする保護からも見離されることを意味するが、それよりもまず、自分にたいして優位に立つこの他人が、懲罰という形で自分にその優越性を見せつける危険に身を曝すことになる。すなわち、そもそも「悪」とは、そんなことをすればもう愛してはやらないぞと言われてしまうようなものであり、この愛を失うことへの不安から、われわれは誰しも「悪」を避けざるをえないのだ。すでに「悪」をしたか、それともこれからやるつもりであるかの区別が重要でないというのもここからきている。どちらの場合にも、危険なのはこの優位に立つ他人にそのことを知られてからの話で、知られてしまったら、どちらの場合にも同じ制裁が加えられるだろう。 |
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Ein ursprüngliches, sozusagen natürliches Unterscheidungsvermögen für Gut und Böse darf man ablehnen. Das Böse ist oft gar nicht das dem Ich Schädliche oder Gefährliche, im Gegenteil auch etwas, was ihm erwünscht ist, ihm Vergnügen bereitet. Darin zeigt sich also fremder Einfluß; dieser bestimmt, was Gut und Böse heißen soll. Da eigene Empfindung den Menschen nicht auf denselben Weg geführt hätte, muß er ein Motiv haben, sich diesem fremden Einfluß zu unterwerfen. Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden. Verliert er die Liebe des anderen, von dem er abhängig ist, so büßt er auch den Schutz vor mancherlei Gefahren ein, setzt sich vor allem der Gefahr aus, daß dieser Übermächtige ihm in der Form der Bestrafung seine Überlegenheit erweist. Das Böse ist also anfänglich dasjenige, wofür man mit Liebesverlust bedroht wird; aus Angst vor diesem Verlust muß man es vermeiden. Darum macht es auch wenig aus, ob man das Böse bereits getan hat oder es erst tun will; in beiden Fällen tritt die Gefahr erst ein, wenn die Autorität es entdeckt, und diese würde sich in beiden Fällen ähnlich benehmen. |
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こういう状態は、ふつう「良心の疚しさ」と呼ばれているが、本当はこの名称は正しくない。というのは、この段階での罪の意識は、明らかに愛を失うことへの不安、つまり一種の「社会的」不安にすぎないからである。 幼児の場合にはこれ以外の状況を考える余地はまったく無いが、大人の場合にも、父親ないしは両親のかわりにかなり大きな人間集団が登場するということ以外、すこしも変わらないことが多い。だから、普通は大人も、自分に楽しみを与えてくれそうな悪事を、自分にたいして優位に立つ他者の耳に入ることは絶対にないとか、入ったところでその他人は自分に手出しできないことが確かでさえあれば、平気でやってのけるのであって、見つかるかどうかが不安なだけである。現代社会は、いわゆる大人の「良心」の水準なるものは一般にこの程度のものと考えておく必要がある。 |
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Man heißt diesen Zustand »schlechtes Gewissen«, aber eigentlich verdient er diesen Namen nicht, denn auf dieser Stufe ist das Schuldbewußtsein offenbar nur Angst vor dem Liebesverlust, »soziale« Angst. Beim kleinen Kind kann es niemals etwas anderes sein, aber auch bei vielen Erwachsenen ändert sich nicht mehr daran, als daß an Stelle des Vaters oder beider Eltern die größere menschliche Gemeinschaft tritt. Darum gestatten sie sich regelmäßig, das Böse, das ihnen Annehmlichkeiten verspricht, auszuführen, wenn sie nur sicher sind, daß die Autorität nichts davon erfährt oder ihnen nichts anhaben kann, und ihre Angst gilt allein der Entdeckung. Mit diesem Zustand hat die Gesellschaft unserer Tage im allgemeinen zu rechnen. |
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(フロイト『文化の中の居心地の悪さ不満』第7章、1930年) |
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以下は、『マゾヒズムの経済論的問題』における上の記述の簡潔版。 |
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人は通常、道徳的要求が最初にあり、欲動断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、道徳性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動断念が初めて道徳性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動断念をさらに求めるのである。 |
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Man stellt es gewöhnlich so dar, als sei die sittliche Anforderung das Primäre und der Triebverzicht ihre Folge. Dabei bleibt die Herkunft der Sittlichkeit unerklärt. In Wirklichkeit scheint es umgekehrt zuzugehen; der erste Triebverzicht ist ein durch äußere Mächte erzwungener, und er schafft erst die Sittlichkeit, die sich im Gewissen ausdrückt und weiteren Triebverzicht fordert. |
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(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年) |
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欲動断念[Triebverzicht]とあるが、フロイトにとってこの語は快の獲得[Lustgewinn]という代理満足(妥協の症状)でもある。 |
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欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年) |
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症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年) |
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つまりフロイトにとって「良心は妥協の症状」ということになる。 ちなみにこの快の獲得はラカンの剰余享楽である。 |
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フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・・・〕 剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ». …jouir le moins possible …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973) |
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フロイトにおいて欲動断念に伴う快の獲得の別名は欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]である。 |
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われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得[Lustgewinn]を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。 |
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Eine andere Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet, durch die seine Funktion so viel an Geschmeidigkeit gewinnt. Die zu lösende Aufgabe ist, die Triebziele solcherart zu verlegen, daß sie von der Versagung der Außenwelt nicht getroffen werden können. Die Sublimierung der Triebe leiht dazu ihre Hilfe. Am meisten erreicht man, wenn man den Lustgewinn aus den Quellen psychischer und intellektueller Arbeit genügend zu erhöhen versteht. |
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芸術家が制作、すなわち自分の幻想の所産の具体化によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性をメタ心理学の立場から明らかにするととができるであろう。だが現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。 |
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Die Befriedigung solcher Art, wie die Freude des Künstlers am Schaffen, an der Verkörperung seiner Phantasiegebilde, die des Forschers an der Lösung von Problemen und am Erkennen der Wahrheit, haben eine besondere Qualität, die wir gewiß eines Tages werden metapsychologisch charakterisieren können. Derzeit können wir nur bildweise sagen, sie erscheinen uns »feiner und höher« , aber ihre Intensität ist im Vergleich mit der aus der Sättigung grober, primärer Triebregungen gedämpft; sie erschüttern nicht unsere Leiblichkeit. |
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(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
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だがこの快の獲得としての欲動の昇華は十分には機能しないというのがフロイトである。 |
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抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 |
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Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer) |
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(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
仮にここで列挙した記述を論理的に追って帰納するなら、フロイトにおいて「人間の良心は十分には機能しない」ということになる。
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実は冒頭の中井久夫も別の論でほとんど同じことを記している。 |
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踏み越えと踏みとどまりの非対称性 |
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不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。 これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。テレビの番組は、その反対物にみちみちている。そうでないものもあるが、その多くは印象が薄いか、わざとらしい。 |
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(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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もっとも踏み越えに抵抗するための処方箋の記述もある。 |
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「自己コントロール」について 私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。 自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。 もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。 |
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(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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より詳しくは➤「踏み越え」について(中井久夫)
ニーチェの辛辣な言い方ならこうである、ーー《通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen]…完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen] 》(ニーチェ『この人を見よ』1888年) |