翼賛体制が露骨になってきたようだな。いまさらだが、実に日本的だね。宇露紛争の初期にも見たが。
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伝統的にロシア(ソ連)に対して悪いイメージが支配する日本の政治・社会がロシアのウクライナに対する武力侵攻に対してロシア非難・批判一色に染まったのは、予想範囲内のことでした。しかし、一定の肯定的評価を得ている学者、研究者、ジャーナリストまでが一方的な非難・批判の側に組みする姿を見て、私は日本の政治・社会の根深い病理を改めて思い知らされました。〔・・・〕日本の政治・社会の際立った病理の一つは、「赤信号一緒に渡れば怖くない」という集団心理の働きが極めて強いということです。ロシア非難・批判一色に染まったのはその典型的現れです。(東アジアの平和に対するロシア・ウクライナ紛争の啓示 浅井基文 3/21/2022) |
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この病気は治癒不能なんだろうよ。
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◼️加藤周一「第2の戦前・今日」2004年10月23日, PDF |
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最後に私が皆さんにぜひ言っておきたいことを申します。よくナチの映画なんかで真夜中にゲシュタポが来てノックする、 「真夜中のノック」というのは有名ですけれども、弾圧は映画のように劇的に来るとは限らないということです。一見ふつうで、さっきの新聞社の話でも、新聞社に軍人がいるわけではありません。だからわりに平常であるかのように見える状態なのだけれども、じつは強い圧力をかける。そうすると見かけは何事もないようで、中ではどんどん政府翼賛のほうに動いていくのです。 メディアにあらわれる影響は、どこの国でも必ずそうです。少しバイアスが戦争支持のほうに動いているかなと見えるくらいの場合でも、新聞が批判しないのは非常に悪い前兆です。批判できないようないろいろなしかけが働いているのです。記者クラブもそのひとつで、いろいろなメカニズムがあります。 |
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私がお勧めするのは、今の状況と比較するのなら、1936年以後から真珠湾攻撃までの間、およそ5、6年の間をどう今と比較するか、ということです。そして、政府の行動についてどこが似ていてどこが違うか。それから、議会ですね。今はまだ政党はあります。組合もあることはある、議会もあることはある。それから、劇団とかそういうところに自由はまだある。これは今はかなりあります。そういうことの、どこが共通していてどこが違うかを比較検討してください。 現在のかなりの部分はたぶん1940年や41年の状況ではないでしょう。しかし、37年、38年、39年の3年ぐらいの間とかなり似ていると思います。議会にあらわれた症状、それから組合、マスメディア、文化的ないろいろな活動、それは皆さんがご自分で検討なさってください。 私の話はここでとめます。 |
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【質疑応答】 |
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司会 一番最初の質問は、 「先ほどの先生のお話の中にもありましたが、日本人というのは付和雷同というか、すぐに強きについて弱気をくじくというような、そんな傾向が体質みたいなものとなっているのではないか。現在の日本人はそういう体質から抜け出ているだろうか」という質問です。 |
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加藤 今のご質問は、集団で、 「みんなで渡れば怖くない」とか、そういうことですね。これは多くの現象と同じように、日本にだけある現象ではありません。付和雷同性というのはいろいろな社会で、どこでもいつでも出てくる問題だと思います。 ただ、程度はいくらか違うかもしれません。日本の場合には2つの要素があります。1つはかなり古く、文献上は8世紀ごろからですが、ことに江戸時代から目立ってきたのは、人口のわりに住める土地が狭いということです。 日本の土地の大部分は山で、急斜面には人は住めませんから、人口密度が高い。こういう条件のもとでは、各自が自己主張をすると暮らしていくことが難しいので、和をもって尊しとするわけで、共同体を比較的先に立てるということが第一にあります。 しかし、土地が狭いというのは自然的条件ですが、社会的条件もあります。 基本的な生産は水田耕作による米で、水田耕作というのは労働集約型の農耕です。あまり寒いところだとイネは育ちません。また砂漠もだめです。結局かなり降雨量が多くて、気温があまり下がらない、それでいて熱帯ではない、そういう自然条件の中で水田が耕作されています。極端な労働集約型の農業ですから、団体での仕事が必要になる。村共同体が必要です。つまり個人の一家で水田耕作を保つのはほとんど不可能なのです。 |
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そのうえ、労働力の必要度が季節によって大きく変動します。一時に非常にたくさんの労働力が必要ですから、どうしても助け合うことが必要になり、したがって共同体の重みが大きくなる。そういう社会的条件があります。 それから、政治的な要素もあるでしょう。江戸時代になると将軍徳川家康は神様ですから、絶対的な独裁社会です。将軍にあらゆる権力が集中しています。そして法的にそれをチェックする機関もありません。明治以後になると、絶対的な君主だった将軍から万世一系の天皇になりました。これも神様です。それが終わるのが1945年8月15日ですが、今度はマッカーサーです。 マッカーサーは神様ではないけれど、占領軍総司令官というのは、地上を合法的に征服している最も激しい権力の集中点です。事実上はもちろん、法的にもそうです。占領というのは主権の移譲ですから日本政府の主権はありません。だから徳川将軍にも劣らない圧倒的な権力者だったのです。 このように、あまりにも圧倒的な独裁権力の下で暮らしているから、それを前提としてそれに合わせることに頭が働くのは当然の話です。だから長いものには巻かれろ主義が出てくるのです。そして戦後の日本は米国追従ということになる。付和雷同性と米国追従というのは絡んで出てきていると思います。 |
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◼️『加藤周一講演集2 伝統と現代』(1996)より |
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集団指向的社会から個人尊重の市民社会へ まァどこの国でもそういう面はあるかと思いますが、殊に日本の社会では集団指向性が強い。"みんな一緒に"という傾向。横断歩道を渡る時も(笑)みんなで一緒に渡ろうとするし、遊ぶ時もみんな同じ遊びをということが多い。文化的にも、あるいは娯楽の面でさえも、また政治にも付和雷同性がある。何かがあるていど流行しだすと、みんなそこへ行く。だから歯止めがない。社会がまずい方向に動き出しても、付和雷同し、その動きが雪だるま式に大きくなる。これは非常に危険です。その歯止めは個人主義のほかにないでしょう。日本では個人主義を付和雷同性の解毒剤として、強化する必要があります。 |
…………
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※附記 しばしば掲げている、日本的ムラ社会をめぐる加藤周一と中井久夫のセットも再掲しておこう。 |
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日本が四季のはっきりした自然と周囲を海に囲まれた島国であることから、人々は物事を広い空間や時間概念で捉えることは苦手、不慣れだ。それ故、日本人は自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神、考え方で生きる事を常とする。この身の回りに枠を設ける生き方は、国や個人の文化を創り出す土壌になる。〔・・・〕 社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。 これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
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農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年) |
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勤勉と工夫に生きる人は、矛盾の解決と大問題の処理が苦手なのだ。そもそも大問題が見えにくい。そして、勤勉と工夫で成功すればするほど、勤勉と工夫で解決できる問題は解消して、できない問題だけが残る。(中井久夫『「昭和」を送る』初出「文化会議」 1989年) |
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さらには次のセットもーー、 |
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ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われている。(丸山眞男「戦争責任について」1956.11) |
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国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収) |