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2026年10月5日月曜日

人間よ、超自我の声をよく聴け!

 

人はみな病気だよ、なんたってみな超自我をもってるからな、

私は病気だよ。というのは、皆と同じように、超自我をもっているからな[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]( Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977)



で、超自我はマゾヒズム、つまり現実界の享楽の原因だ、

超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, l6  janvier  1963)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il (Freud) l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)




つまりは自己破壊欲動の原因だ。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


ーー自己破壊欲動とはマゾヒズム➤死の欲動である。

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann.

(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ーー通常は自己破壊しないために他者破壊するんだよ。ツイッターでもこれやってるヤツをよく見るだろ?


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。

(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


他者破壊ではなく自己破壊に身を委ねているヤツもいるが、生物学的死まで行かなくても、次の症状はしばしば見るだろ?

抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



ーー中井久夫は《解離された自己破壊衝動の囁き》と言ってるが、事実上これが超自我の声だよ。


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi … apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. ](ラカン, S10, 19 Juin 1963)

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


超自我の声は、フロイト版なら次の文だな、

超自我が、耳に聴かれたものに由来したことを否定することは不可能であり、それは自我の一部であって、この言語表象 (概念、抽象)から意識に通じている。しかし、その備給エネルギーは、聴覚、教育、講義から超自我のこの内容に注入されるのではなく、エスの源泉からそそがれる。

das Über-Ich auch seine Herkunft aus Gehörtem unmöglich verleugnen kann, es ist ja ein Teil des Ichs und bleibt von diesen Wortvorstellungen (Begriffen, Abstraktionen) her dem Bewußtsein zugänglich, aber die Besetzungsenergie wird diesen Inhalten des Über-Ichs nicht von der Hörwahrnehmung, dem Unterricht, der Lektüre, sondern von den Quellen im Es zugeführt.〔・・・〕

メランコリーに目をむけると、意識を占有した非常に強い超自我が、自我にむかって無慈悲に激怒し、あたかも、その個人の中のあらんかぎりのサディズムを発揮するかのようにふるまうことが認められる。サディズムに関するわれわれの見解にしたがえば、破壊的成分が超自我の中に巣喰って、自我に敵対したということができよう。超自我の中で支配しているものは、死の欲動の純粋培養のようなものであって、自我が躁病に転変することによって、あらかじめその暴君をふせがないと、しばしば本当に自我を死に駆り立てることがある。

Wenden wir uns zunächst zur Melancholie, so finden wir, daß das überstarke Über-Ich, welches das Bewußtsein an sich gerissen hat, gegen das Ich mit schonungsloser Heftigkeit wütet, als ob es sich des ganzen im Individuum verfügbaren Sadismus bemächtigt hätte. Nach unserer Auffassung des Sadismus würden wir sagen, die destruktive Komponente habe sich im Über-Ich abgelagert und gegen das Ich gewendet. Was nun im Über-Ich herrscht, ist wie eine Reinkultur des Todestriebes, und wirklich gelingt es diesem oft genug, das Ich in den Tod zu treiben, wenn das Ich sich nicht vorher durch den Umschlag in Manie seines Tyrannen erwehrt.

(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


事実上、超自我の声はエスの声であって、よほど耳が遠いヤツじゃなければ、皆聞こえてくるよ。

超自我はエスに起源がある[das Über-Ich, das aus dem Es stammt ]〔・・・〕

自我における矛盾は、自我は抑圧によってエスにたいしては門戸を閉ざしているが、超自我からの影響にはまったく開放されたままになっていることを証している[der Widerspruch im Ich beweist uns nur, daß es sich mittels der Verdrängung gegen das Es verschlossen hat, während es den Einflüssen aus dem Über-Ich voll zugänglich geblieben ist ](フロイト『制止、症状、不安』第5章1926年)


既にニーチェが「人間よ、エスの声をよく聴け!」と言ってるがね。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?おお、人間よ、よく聴け!


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


ここでは「人間よ、超自我の声をよく聴け!」と言っておくよ、耳を閉じていなかったら自ずと聞こえてくる筈だよ。


なおここでの超自我は「前エディプス的超自我」であり、フロイトの超自我は「エディプス的超自我」だけだと一般ではいまだ誤解されていることが殆どだが、そうではないことに要注意[参照]。





例えば、坂口三千代さん曰くの「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」という安吾の言葉は母なる超自我の声ではなかったか、と私はひそかに睨んでいる。


彼が暴れ始めると相変わらず私は体が震えて足が変に軽くなってフワフワして来てしまう。もう、涙がふきこぼれてものも言えないということはなくなったが、馴れるということは絶対にできなかった。そのたびに私の心は宙に飛びあがってしまうのだ。〔・・・〕


彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。〔・・・〕

睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた。〔・・・〕


十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。


「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」


そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代「クラクラ日記」1967年)



かつまた、ニーチェの『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」に現れる《私の恐ろしい女主人 [meiner furchtbaren Herrin]》の声[参照]も母なる超自我の声だろう、と。


……………


❖附記



真の作家ーーいや作家だけでないだろうがーー彼らは究極的には自己破壊に向かう場合があるように見える。


以下、中井久夫の「創造と癒し序説」から抜き出しておこう。

「もし私が書かなかったならば私はとめどもなく憂鬱になってしまっていただろう」とドイツの作家トーマス・マンは晩年に語っている。そして、彼は午前中、きっかり正午まで書斎にこもって人を寄せつけなかった。創作の合間にピアノをひいて、その音だけが扉の外に漏れてきたから、娘のエリカ・マンは、お父さんの音楽の時間だとずっと思っていたという。

 

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、一八九四年、彼が精神病的とさえ憶測される二年間を通過した後、生涯、朝四時に独り起きだしてコーヒーを沸かし、八時まで、現在「カイエ」と称される膨大なノートを執筆した。詩作も、この暁の純粋で孤独な時間になされた。〔・・・〕


私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。


 むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。〔・・・〕


 しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。 


芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。


作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。 


一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。


 一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。


「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。


「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。


第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。


第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。


サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」1996年)




ひとつだけ補足しておけば、「サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして…」云々とあるが、確かにフロイトは前中期の段階では昇華を賛美しているが、後年は次の如し。


人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)




2026年10月4日日曜日

イランは「茹でガエル」政策を実施している(Sameh Asker)

 

この、作家でありかつ国連啓蒙組織メンバーのSameh Asker曰くの《イランは「茹でガエル」政策を実施している》という話は「なるほど」と思わせるね、イランエリートは頭がいいのが揃っているからな。もっとも中国やロシアも米国に対して同様の思惑があっても不思議ではないが。








日本は別の意味でとっくに茹でガエル状態なんだがな、

半年前、次の投稿を拾ったことがあるがね。



このツイートのキモは《訓練されたカエルは気付くことができません》だな。そこに最も感銘を受けたよ。やっぱり「空気」に訓練されてるんだろうからな、➤ 空気を読む文化と日本語の二人称的性格



哲学の役割ーー権力の道具となっている連中を告発すること


ドゥルーズはこう言ったがね、

「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。誰が他に関心を持つというのか、自由な人間の姿を作ること、権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発することに。À qui demande : « à quoi sert la philosophie ? », il faut répondre : qui d'autre a intérêt ne serait-ce qu'à dresser l'image d'un homme libre, à dénoncer toutes les forces qui ont besoin du mythe et du trouble de l'âme pour asseoir leur puissance ?(ドゥルーズ「ルクレティウスとシミュラークル」『意味の論理学』1969 年)


この問いは『ニーチェと哲学』にもある。

愚かさとは、思考そのものの構造である。それは間違いを犯す方法ではなく、原理的には思考に内在するナンセンスを表現するものである。愚かさとは誤りではなく、誤りの集合体である。私たちは、真実だけで構成されている愚かな考えや愚かな言説を知っている。しかし、これらの真実は卑しいものであり、卑しく、重く、鉛のように重い魂のものである。愚かさとは、さらに深く言えば、愚かさの症状である卑しい思考様式である。[…] 誰かが哲学は何の役に立つのかと尋ねるとき、その質問は皮肉と痛烈さを意図しているため、答えは攻撃的でなければならない。哲学は国家や教会に奉仕するものではない。彼らには別の関心事がある。哲学は既存の権力に奉仕するものではない。哲学は悲しませるためにある。誰も悲しませず、誰も動揺させない哲学は哲学ではない。哲学は愚かさを傷つけるためにある。愚かさを恥ずべきものにするためにある。

La bêtise est une structure de la pensée comme telle : elle n’est pas une manière de se tromper, elle exprime en droit le non-sens dans la pensée. La bêtise n’est pas une erreur, mais un tissu d’erreurs. On connaît des pensées imbéciles, des discours imbéciles qui sont faits tout entiers de vérités ; mais ces vérités sont basses, sont celles d’une âme basse, lourde et de plomb. La bêtise et, plus profondément, ce dont elle est le symptôme : une manière basse de penser. […] Lorsque quelqu’un demande à quoi sert la philosophie, la réponse doit être agressive, puisque la question se veut ironique et mordante. La philosophie ne sert pas à l’État ni à l’église, qui ont d’autres soucis. Elle ne sert aucune puissance établie. La philosophie sert à attrister. Une philosophie qui n’attriste personne et ne contrarie personne n’est pas une philosophie. Elle sert à nuire à la bêtise, elle fait de la bêtise quelque chose de honteux.

(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』1962年)


ここでドゥルーズの言ってることは、究極的にはニーチェの「反時代的」のことだ。

哲学は常に反時代的である。いつの時代においても反時代的である。la philosophie, toujours intempestive, intempestive à chaque époque. (ドゥルーズ『ニーチェと哲学』 Gilles Deleuze, Nietzsche et la philosophie, 1962)


ニーチェ自身からならーー、

反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。in ihr unzeitgemäß – das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit – zu wirken.〔・・・〕


世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。Denn alles, was mit der öffentlichen Meinung meint, hat sich die Augen verbunden und die Ohren verstopft (ニーチェ『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』1876年)


これはフーコーも同様。

しかし、今日において哲学とは何であろうか、一一私が言っているのは哲学的活動のことだ一一、もしそれが、思考の思考自身に対する批判作業でないとしたら? そしてもしそれが、すでに知られていることを正当化するそのかわりに、別の仕方で思考することがどのようにしてまたどこまで可能であるかを知ろうとすることでないとしたら?

Mais qu'est-ce donc que la philosophie aujourd'hui – je veux dire l'activité philosophique – si elle n'est pas le travail critique de la pensée sur elle-même ? Et si elle ne consiste pas, au lieu de légitimer ce qu'on sait déjà, à entreprendre de savoir comment et jusqu'où il serait possible de penser autrement ? (フーコー『性の歴史』第二巻 『快楽の活用』「序文」M.Foucaul,L'Usage des plaisirs, 1984)


ドゥルーズ注釈ーー、

フーコーが偉大な哲学者であるなら、彼は歴史を何か別のもののために使ったからだ。ニーチェが言ったように、時代に抗して、したがって時代の上に、願わくば来たるべき時代のために。なぜなら、フーコーにおいてアクチュアルあるいは新しいものとして現れる何ものかは、ニーチェの反時代的、非アクチュアルだから。

Si Foucault est un grand philosophe, c’est parce qu’il s’est servi de l’histoire au profit d’autre chose: comme disait Nietzsche, agir contre le temps, et ainsi sur le temps, en faveur je l’espère d’un temps à venir. Car ce qui apparaît comme l’actuel ou le nouveau chez Foucault, c’est ce que Nietzsche appelait l’intempestif, l’inactuel.».


(ドゥルーズ「装置とは何か」GILLES DELEUZE,《Qu'est-ce qu'un dispositif?》in 《Michel Foucault Philosophe》1989年)

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来るべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること、つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。

Penser le passé contre le présent, résister au présent, non pas pour un retour, mais « en faveur, je l'espère, d'un temps à venir »(Nietzsche), c'est-à-dire en rendant le passé actif et présent au dehors, pour qu'arrive enfin quelque chose de nouveau, pour que penser, toujours, arrive à la pensée. La pensée pense sa propre histoire (passé), mais pour se libérer de ce qu’elle pense (présent) et pouvoir enfin « penser autrement » (futur) (ドゥルーズ『フーコー』Deleuze, Foucault, 1986)



哲学研究者を名乗るなら、せめてこれくらいの気合いは入れないとな。



ところで冒頭に戻って、哲学は、《自由な人間の姿を作ること、権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること》であるなら、ドゥルーズにとって、哲学者はリベラル、あるいは左翼であるべきじゃないんだろうか。


日本を代表する左翼知識人だった加藤周一はこう言ったがね。

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年)


ーーこの文を受け入れるなら、「権力を批判する」リベラル左翼を嫌う者たちは「権力の道具」でなくてなんなんだろう?


もっとも私はいわゆる「リベラル左翼」とレッテルを貼られている「党派人」たちを嫌悪する人たちの心持ちはわからないではないがね。あの連中はーー私に言わせればあれら「似非インテリ」はーー信念の人がほとんどだからな。



信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)


私が嘘と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で嘘するのか、目撃者がいないとき嘘するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である[Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall.]


――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。[— Nun ist dies Nicht-sehn-wollen, was man sieht, dies Nicht-so-sehn-wollen, wie man es sieht, beinahe die erste Bedingung für alle, die Partei sind, in irgendwelchem Sinne:]


すなわち、党派人は必然的に嘘つきとなる[der Parteimensch wird mit Notwendigkeit Lügner].。…党派的な人は誰でも、本能的に、道徳的な大きな言葉を口にするものである。そうであってみれば、道徳が存続するのはあらゆる種類の党派人がそれをたえまなく必要とするからだ、という事実に、もはや驚くこともあるまい。(ニーチェ『反キリスト者』第55章、1888年)



とはいえーー先に戻って言えばーー「権力」とは何かを見極めることがひどく大事だろうよ。例えば、共同体内のチャチな権力なのか、それとも世界全体における権力なのか。


冷戦終了後、つまり1990年以降の西側世界における支配的な権力は新自由主義イデオロギーじゃないかい?


米国で新自由主義のバイブルとして扱われてきたアイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』にはこうあるがね。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。Until and unless you discover that money is the root of all good, you ask for your own destruction(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』Ayn Rand, Atlas Shrugged,1957年)


例えば米国の日銀であるFRB、その第13代だったFRB議長アラン・グリーンスパンはアイン・ランドの大ファンだったらしい。


◼️マイケル・ハドソン「帝国の底に潜むバブル」

The Bubble Beneath the Empire By Michael Hudson, August 18, 2026

Michael Hudson & Steve Keen, “The Federal Reserve, The Constitution, and the End US Hegemony,”

Part I, August 14, 2026.

グリーンスパンが退任した際、BBCからインタビューの依頼があり、ワールド・トレード・センター近くのスタジオへ行きました。BBCのウェブサイトのトップページには、私が使った言葉が掲載されました。マイケル・ハドソンによる「私の後には大洪水:アラン・グリーンスパン」という言葉です。それは、グリーンスパンが規制緩和によって招いた事態を私が要約したものでした。彼はアイン・ランドの信奉者でした。「政府を排除せよ、すべてを自由に放任せよ」という考え方です。政府など不要であり、金儲けの手段は何であれ利益を生むものであり、したがって経済にとって有益である、と。たとえ寄生的な方法で金が稼がれたとしても、そもそも「寄生」などというものは存在しない、という理屈です。グリーンスパンはその一派の人間でした。

When Greenspan stepped down, the BBC asked me to come to its studio near the World Trade Center for an interview. The front of its website ran the phrase I had used: “After me, the deluge: Alan Greenspan,” from Michael Hudson. That was how I summarized what Greenspan had created by deregulating. He was a follower of Ayn Rand: get rid of government; everything should have a free ride. We don’t want government. Any way of making money is profitable and therefore a benefit to the economy. Even if the money is made parasitically, there is supposedly no such thing as parasitism. Greenspan was part of that clique.


私に言わせれば、この「マネーはすべて」という新自由主義イデオロギーに抵抗してないヤツは権力の道具だよ。


日本の大学人もこの新自由主義イデオロギーに染まってるんだろうよ、少なくとも90年以降に知的教養を身につけた若い連中は。ツイッターをチラッと垣間見るだけでそれは歴然とするな。



私のテーゼは、ほとんどの大学は新自由主義的言説の餌食になっているということだ。これは大学にとっても社会にとっても悪である。大学にとって悪なのは、創造性と批評精神を崩壊させるから。社会にとって悪なのは、学生に新自由主義のアイデンティティを書き込むから。

It is my thesis that most universities have fallen prey to the neoliberal discourse as well, and that this is bad both for the universities and for society. It is bad for the university because it destroys creativity and critical thinking. It is bad for society because it endorses a neoliberal identity in students.  〔・・・〕

より高度な教育にとっての機関の現代的使命言説は「生産性」「競争性」「革新」「成長」「アウトプット資金調達」「コアビジネス」「投資」「ベンチマーキング」等々である。これらの中いくつかの表現はかつての時代の、例えば「多様性と尊敬の育成」、「精神の修養」等を指し示しているかに見える。だが欺かれてはならない。これは単に粉飾に過ぎない。新しい言説の核心は経済である。

The contemporary mission statements of institutions for higher education are crammed with expressions such as ‘productivity', ‘competitiveness', ‘innovation', ‘growth', ‘output financing', ‘core business', ‘stakeholders', ‘bench marking' etcetera. Some expressions in these mission statements refer to former times – e.g. ‘fostering diversity and respect', and ‘cultivating the mind' – but don't let that mislead you, this is just window dressing. The core of the new narrative is economic.  〔・・・〕

長いあいだ、大学は自身の小宇宙のなかの静的な社会だった。〔・・・〕しかし、状況は劇的に変貌した。大学人は不可視の行政機関の音楽に踊ることを余儀なくされている。

For a long time, universities were static societies in their own microcosm (…) however, this situation changed dramatically, …they are compelled to dance to the music of an invisible administration.

(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities, 2013)

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現在、世界を席捲する戦争機械なるネオコン、その《ネオコンはネオリベが整えた土壌に根付いた新たな政治形態」« Neoconservatism sewn in the soil prepared by neoliberalism breeds a new political form»》(American Nightmare Neoliberalism, Neoconservatism and De-Democratization, Wendy Brown, 2006)だとしたら、ドゥルーズやフーコーの言っていることは、カントに戻って「統整的理念」の必要性と言い換えてもいいよ。



世界市民社会[eine weltbürgerliche Gesellschaft (cosmopolitismus) ]のようなそれ自身到達され得ない理念は、構成的理念[konstitutives Prinzip](人間のきわめて生き生きとした作用と反作用のまっただ中にある平和の期待)ではなくて,あくまで統整的理念[regulatives Prinzip]にすぎない。すなわち、人類の使命として、それに向けた自然な傾向があるという根拠のある推測なしには、この理念を熱意をもって追求することはできない。

aber allgemein fortschreitenden Koalition in eine weltbürgerliche Gesellschaft (cosmopolitismus) sich von der Natur bestimmt fühlen: welche an sich unerreichbare Idee aber kein konstitutives Prinzip (der Erwartung eines mitten in. der lebhaftesten Wirkung und Gegenwirkung der Menschen bestehenden Friedens), sondern nur ein regulatives Prinzip ist: ihr als der Bestimmung des Menschengeschlechts nicht ohne gegründete Vermutung einer natürlichen Tendenz zu derselben fleißig nachzugehen.

(カント『実用的見地における人間学』1798年)



ーーこの統整的理念なき哲学研究者なんてありなのかい?


しかしーー少なくとも宇露紛争以来ーー、仮にも「優秀な頭脳」だろうと迂闊にも見做していた人たちの劣化ぶりには呆然自失したし、今でもそれは続いているな。


世界市民の道徳的水準の低下にまさるとも劣らず、われわれを驚かせ、狼狽させたことは、彼らがしめしたある別の症状であった。それはつまり、もっとも優秀な頭脳すらもがしめした洞察の欠如であり、頑述さ、徹底的な議論の忌避であり、容易に論駁されうる主張に対する無批判的な追随のことである。実際、これは悲しむべき光景を出現させたのである…

Vielleicht hat uns aber ein anderes Symptom bei unseren Weltmitbürgern nicht weniger überrascht und geschreckt als das so schmerzlich empfundene Herabsinken von ihrer ethischen Höhe. Ich meine die Einsichtslosigkeit, die sich bei den besten Köpfen zeigt, ihre Verstocktheit, Unzugänglichkeit gegen die eindringlichsten Argumente, ihre kritiklose Leichtgläubigkeit für die anfechtbarsten Behauptungen. Dies ergibt freilich ein trauriges Bild…

(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)




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❖附記


◼️プーチン演説ーー於ヴァルダイクラブ、2026年10月1日、モスクワ

〔・・・〕ここで少し本題から離れます。この会場には、現代における極めて深刻な紛争であるウクライナ紛争、そしてその原因について、実に多様な意見を持つ方々がいらっしゃいます。この件について一言申し上げたいと思います。何百、あるいは何千もの専門家――すなわち、このヴァルダイクラブの会合の資料を検討することになる皆様の同僚たち――もまた、この問題についてそれぞれの見解を抱いていることは事実です。専門家の間には、「平和を唱えながら、なぜロシアは戦争を始めたのか」と疑問を抱く人々がいることも、もちろん承知しています。これについてはこれまで何度も述べてきましたが、この聴衆の皆様の前で、改めて申し上げたいと思います。


真実はどこにあるのでしょうか。真実は、我々が望んだわけでも、戦いを始めたわけでもない、ということです。実際には、彼らこそが我々に対して戦いを仕掛けてきたのです。彼らは、ウクライナをロシアと戦うための「道具」に変えるべく、攻撃的なナショナリズムやロシア嫌悪(ルソフォビア)を助長するようなことをすべきではありませんでした。NATOは、自らの利益のために我々の歴史的領土をその軍事圏に組み込もうとしたり、そこに基地を設置する計画を立てたりすべきではなかったのです。キエフの急進派を政権転覆へと駆り立てるべきではありませんでしたし、その後、事実上非合法な政権にあらゆる種類の攻撃用兵器を大量に供給すべきでもありませんでした。ドンバスやクリミアの住民を収容する強制収容所の計画が策定されるべきでもありませんでした。単に民族的背景や精神においてロシア人であるという理由だけで、非武装の人々が戦車に轢かれたり、ミサイルや空爆の標的とされたり、生きたまま焼き殺されたりするような事態は、あってはならなかったのです。


こうした「やってはならないこと」のリストはまだ続きますが、ここまでにしましょう。私は、これがロシアを意図的に追い込み、明白な侵略行為に対して武器を手に自衛せざるを得ない状況に陥らせようとする試みであったと確信しています。彼らは、承知の上で、意図的に我々をこの瀬戸際へと追いやったのです。総じて言えば、ロシアに「戦略的敗北」を強いることを目指す中で、ロシア嫌悪(ルソフォビア)やロシア人の抑圧・殺害、そしてロシアの破壊を国家イデオロギーにしてはならないはずです。かつてはそのように語られていたではありませんか。誰もそのことを忘れてはいません。少なくとも、我々は忘れていません。


Let me digress from the main topic for a while. There are people here in this room who hold a very diverse mix of opinions regarding an extremely acute present-day conflict – the Ukraine conflict, and what caused it. I would like to say a few words on this matter. It is a fact that many hundreds or even thousands of experts, your colleagues who will study the materials from this Valdai Club meeting, they have their own opinions on this matter. I am, of course aware that some within the expert community might ask why Russia started the war while talking about peace. I have commented this many times already, but let me say this once again in front of this audience.

Where is the truth? The truth is that we did not want and were not the ones who started to fight. In fact, they started to fight against us. They should have refrained from encouraging aggressive nationalism and Russophobia in Ukraine so as to turn it into a tool for fighting Russia. NATO should not have embarked on an effort to make our historical territories part of its military space in its own interests and should not have planned setting up its bases there. Radicals in Kiev should not have been pushed to a government coup while the de facto illegal regime should not have been pumped full of all kinds of offensive weapons after that. Plans for setting up concentration camps for the people from Donbass and Crimea should not have been drafted. Unarmed people should not have been rolled over by tanks, shelled with missiles and bombed from the air and burnt alive just for being Russian, in terms of both their ethnic background and their spirit.


The list of these do-nots goes on, but let me stop at that. I am convinced that this was an intentional effort to place Russia in a situation when it was simply forced to defend itself with arms in hand to respond to this obvious act of aggression. They pushed us to this brink knowingly and intentionally. Overall, Russophobia, oppressing and killing Russian people and destroying Russia should not be turned into state ideology while striving to inflict a strategic defeat on Russia. This was the way it was all articulated, right? No one forgot this. At least, we did not forget this.





◼️ウクライナ軍総司令官 ヴァレリー・ザルジニーへのインタビュー

An interview with General Valery Zaluzhny, head of Ukraine’s armed forces   

The Economist 2022/12/15

ヴァレリー・ザルジニー:我々にとって、戦争は2014年に始まりました。私個人にとっては2014年7月です[For us, for the military, the war began in 2014. For me personally in July 2014]。そして、2014年の時点では、戦争が本当に何なのか、まったく知りませんでした。


たくさんの本を読み、すべてのアカデミーを金メダルで卒業し、理論的にはすべて理解していましたが、戦争の本当の意味は理解していませんでした。しかし、2022年までの8年間の戦争で、私も私のような人間も、すべてを完璧に理解したのです。


大規模な侵略が始まったときに私たちがしたことは、2014年の時点ですでに持っていた知識だけでなく、それ以降に得た技術や経験を実行することでした。そして、私たちが得た最も重要な経験であり、ほとんど宗教のように実践してきたことは、ロシア人や他の敵は殺さなければならない、ただ殺さなければならない[Russians and any other enemies must be killed, just killed]、そして最も重要なことは、それを行うことを恐れてはならない、ということです。そして、 これが私たちがやっていることです。

2月24日に起こったことは、規模の拡大だけです[all that happened on February 24th was an increase in scale.]