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2017年9月1日金曜日

あしたには Morgen

◆R. Strauss "Morgen" Elisabeth Schwarzkopf/Glenn Gould



いやあ・・・徹底的なロマンチスト・グールド・・・

気取ってないで、生得の好みのはずのロマンチックな音楽をかつてのように聴くべきだ

長いあいだグールドのブラームスを聴いていなかった

◆Glenn Gould - Brahms Intermezzo no:2 in A major Op. 118



驚くほどに音が遠くにある感じが好きだ。夕暮れの苦い樹皮、最期の苦痛(……)、とぎすまされていて呆然とさせる境界線の接近。そのただずまいに感じられる果てしない悲しみ。記憶が音楽に変わるのか、それとも音楽が記憶に変わるのか判然としないままだ。(ミシェル・シュネデール)

「diminuendo」 谷川俊太郎

音楽が曲の終りでディミヌエンドして
だんだん音がかすかになっていって
静けさに溶け入ってゆくときの
言葉がとうに尽きてしまった
絶え入るような世界の感触

私の耳で
タマシヒが
まどろんでいる


◆Gieseking plays Schumann Davidsbündlertänze (4/4)

ーー遠くからやってくるように(Wie aus der Ferne 遠くからのように)








2015年11月24日火曜日

バッハの最も美しい断章(BWV878 フーガ)

◆Glenn Gould - Fugue in E Major from The Well Tempered Clavier Book 2 - BWV 878






※参照:バッハ平均律2巻第9番フーガの構造分析(グレン・グールド)

第29小節目の嬰トからホに至る6度音程の箇所をわたくしは最も好むのだがーー極論をいえば、バッハの数多くの曲のなかの至高の箇所とくらいに感じている(とすれば言い過ぎであり、この29小節以降から最後までがわたくしにとって最も美しい断章だ)ーー、誰もいまだグールドのようにーーあるいはわたくしが弾くように、でもあるぜ?--弾いてくれない(とくに6度音程の最後のホの音をいかに弾くかでわたくしの好き嫌いはわかれる)。

アンジェラ・ヒューイットは、これまでそれほど好んでいなかったのだが(シツレイながら印象がわるいオバチャンだぜ)、この演奏は気に入ってしまった。やはり人は貌容で判断してはならぬ・・・


◆Bach WTK II Prelude and Fugue No 9 in E major BWV 878 Fugue - Hewitt



…………

冒頭のヴィデオは三十歳前後、レーザーディスクが流行りだしたころ、あの演奏がはいった何枚組みのLDを聴きたいがために、LD再生機を購入したことを思い出す。


さて本日はじめて聴くあとふたつのBWV878を貼り付けておく。わたくしはこれらの演奏をグールドの演奏と頭のなかで重ねて、気に入らないところは是正しながらまずは聴いているのだろう。それから離れて裸で聴くと気に入らないところがいくらか出てこないでもない。


ロザリン・テューレックは、ほとんど専門のバッハ弾きだけあって、とても魅力的な演奏だ。

◆BWV878 WTC 2-09 Prelude & Fugue in E Tureck 1953 mono




◆J.S.Bach: Fugue No.9 BWV 878 from Well-Tempered Clavier Book 2 [Emerson String Quartet]



このエマーソン弦楽四重奏団は、一度目に聴いたときは瞠目したのだが、何度も聴いていると、アラ探しをしてしまうのだが、何が気に入らないというのか?、ーーまずは「間」なのだ。

ただし他のフーガの演奏のなかには新鮮な演奏がーーまだ?--たくさんある(21曲プレイリスト)。

…………

毎日半時間から一時間ほどバッハを弾く習慣があるのだが、最も何度もくり返して弾くのは、このBWV878のフーガと三声のハ長調のインベンションだろう(音階練習のかわりとしても)。

◆Glenn Gould Bach Sinfonia No. 1 BWV787



ああなんと悦ばしいフーガだろう!

グールドの「シューベルト」と同じくらいに。







2015年6月20日土曜日

ビロードの肌ざわり BWV 793

四十年以上つづく「ある女」への恋」にてWolfgang WellerのBWV 792を「絶賛」したが、彼のBWV793はぜんぜんダメだ(つまりわたくしの好みではない)。ここに掲げる気にもならない。


◆グールド Moscow. May 7, 1957




◆スタジオ録音版(1964)



Schiff

スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲も退くの演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。(シュネデール)

ベートーヴェンのOP110ではないが、この短いシンフォニアでも、やはりそうだ。大違いだ、モスクワライヴにはくらくらする。

あっ! ああ! あああ!!--ここにあるのは、
《軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、
わたしが神々しいトカゲと名づけている瞬間を、
ちょっとのま釘づけにするという、
けっして容易ではない技術であるーー》(神々しいトカゲ

一陣の風がさっとふき渡るのだ、

風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を! (ヴァレリー「海辺の墓地」中井久夫訳)

《丘のうなじがまるで光つたやうではないか/灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

くらくらするのは、何にか? 《「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる》(フロイト)。

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)


…………

アンドラーシュ・シフの2001年録音版に行き当たったので貼付。

◆J.S.Bach: Goldberg Variations BWV 988 4. Variatio 3- Canone all'Unisono [Schiff]2001




SCHIFF 1981


◆Gould 1955 studio





Glenn Gould in Russia 1957

Gould - Salzburg's Recital of 1959

1981DVD


ザルツブルグがもっとも薫り高い。ああ、ビロードの肌ざわり! もちろんビロードの肌ざわりは、齢を重ね性的情動が低下すれば、失われてゆく。

最晩年のより構成的な演奏は理知が摘みとった演奏でしかない。

理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。

しかしながら、理知が現実から直接にとりだしてくるそのような真実も、私は一概に軽蔑すべきものではないと感じるのであった、なぜなら、そのような真実は、過去と現在との感覚に共通のエッセンスが時間のそとにもちだしてくれる例の印象を、純粋のままにではなくても、すくなくとも精神の透徹力によって、たいせつに収蔵することができるだろうからであった。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)



2015年5月9日土曜日

「傑作に面した窓」(プルースト)

偉大な音楽家についていえば(ヴァントゥイユがピアノを弾く場合がそれにあたると思われるのであるが)、その演奏は、弾いている芸術家がピアニストであるなどということを全然人に意識させなければ、それだけ偉大なピアニストの演奏だといえる、なぜなら(そんな演奏は、あちこちではでな効果でかざるあの華麗な指づかいの努力とか、また手がかりをもたない聴衆が、具体的にとらえうる演奏家の実際の動作のなかに、すくなくとも才能を見出すような気持になるあの音をとびちらせるようなめまぐるしさとか、そういうものをいっさい介入させないので)、その演奏は、じつに透明であり、彼の解釈によるものに満ちていて、もはや彼自身の姿を聴衆は見ないのであり、彼はもはや一つの傑作に面している窓にすぎなくなっているからである。((プルースト「ゲルマントのほう 一」井上究一郎訳 p56)

こういったピアニストを選ぶとしたら、誰をあげたらいいだろう、--まさかグールドをあげるわけにはいかない(あげたい気持でいっぱいだが)。ではリパッティ? いや今はYouTubeを貼り付けるのはやめておこう。

最後のパラドックス。それは彼自身だ。主観性の敵、匿名性の賛美者であるはずなのに、この人の演奏を二小節ばかり聞けば、ほかのピアニストのあいだにあってもすぐにそれと見分けることができる。(ミシェル・シュネデール グールド論)

とはいえ、グールドの1957年5月12日のモスクワ、1959年8月25日のザルツブルグ演奏旅行においては、奇跡が起こっている。すなわち至高の「傑作に面した窓」の刻限がある。




Glenn Gould in Russia 1957 (Bach, Beethoven, Berg, Webern, Krenek)
…………




ーーこの4人の演奏家の録音を聴くと(録音状態にもよるだろうが)、カザルスのすばらしさは響きではけっしてないことが分かる。

…ラ・ベルマの声は、その声帯のどんな隅々にまでも微妙に溶けこみ、まるで大ヴァイオリニスト奏者の楽器のようになっていたのであって、そうした大演奏家が美しい音をもっていると人がいうとき、ほめられているのは、物理的特性ではなくて、魂の優越性なのである、……(同プルースト p57)




指が叩き出す音と声が出す音がこうして重なり合っても、かならずしもそのことでグールドが歌を口ずさむ音楽家として特殊な例となるわけではない。指揮者ならばトスカニーニ、セル、バルビローニなどがいたし、演奏家ではゼルキンがいた。いずれも息と声を押し殺したりはしない人々だ。カザルスはときに木こりが丸太を切るときにあえぎを上げるように弓を運びに合わせて声を上げることがあった。だが抑えがたい歌はグールドの場合とにかく極端であって、ついには顔とピアノの周囲に立ち並んだマイクのあいだに声を吸収する一種のフィルターを設置せざるえなかなった。(ミシェル・シュネデール グールド論)

これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。(パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編
Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない(同)

カザルスはどんな風にバッハの平均律を演奏したのだろう? タチアナ・ニコラーエワのように?





あるいはナウモフのように「祈り」ながら?





ところで、文章にも「傑作に面している窓」ということが言えるだろうか。まさか? 文章は原典がない。ところが、こういうことを言う人がいる。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)
書くときに私が到達しようと努めているのは、おそらくその状態ね。外部の物音にじっと耳を澄ましている状態。ものを書く人たちはこんなふうに言う、 "書いているときは、集中しているものだ" って。私ならこう言うわ、 "そうではない、私は書いているとき、完全に放心しているような気がする、もう全く自分を抑えようとはしない、私自身、穴だらけになる、私の頭には穴があいている" と。(デュラス/ポルト『マルグリット・デュラスの場所』)
私はひとり、でも声があらゆるところで私に語りかけてくる。そこで・・・ この溢れ出すような感覚をほんの少し知らせようとしているの。長いこと、私は、あれを外部の声だと信じていたけど、今ではそう思っていない。 あれは私なのだと思う。 (『マルグリット・デュラスの世界』)

…………

音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)





「なぜ我々は音楽を聴くのか?」 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためだ。リルケが美についていったことは音楽にも当てはまる。すなわち、ルアー、スクリーン、最後のカーテン、それが我々を(声の)対象の恐怖に直接に遭遇することを守ってくれる。入り組んだ音楽のタペストリーが分解し崩れ落ちて、純粋な分節化されないままの叫びに陥ったとき、我々は対象としての声に接近する。この正確な意味にて、ラカンが指摘したように、声と沈黙は図と地に関係する。沈黙は(人が考えがちのように)、声の「図」が出現する「地」ではない。全く反対に、反響する音自体が、沈黙の「図」を可視化する「地」を提供するのだ。(ジジェク『私は、私の眼で、あなたを聴く』Slavoj zizek, "I Hear You with My Eyes"; or, The Invisible Master)

静かさというのは物音と物音との、落着いた遠近のことらしい。近い物は近く聞え、遠い物は遠く聞え、その中を近づいてくる音、遠ざかって行く音が自然に耳でたどれる、おのずと耳でたどっている、そんな空間のことらしい。あるいは揺ぎなく、遅速なく、目で測れるように流れる時間、のことかもしれない。近づいてくるのが、生命を脅かすようなものでも、そんな時、人は静かと感じるようだ。

遠近の失われた静かさというものはある。何もかも等しなみに鮮明に、あるいは朧気に映る。あるいは時間があまりにも早く、あまりにも遅く流れる。外の力にもはや反応できなくなる。あるいは自分自身の行為からふっと離れてしまう。そんな時、人はやはり静かと感じるようだ。長閑とも感じる。しかしその長閑さは、どうやら根に叫喚をふくんでいる。声にならぬ叫喚、そのものかもしれない。考えてみれば、遠近を狂わせるものは、恐怖なのだ。

無音と呼ぶべきものもあるようだ。音がないわけではない。音への関係が失われているのだ。そんな時、人はとかく、物音の侵入に悩まされているように思いこむ。数ある中で、特定の物音に、はてしもなくこだわる。じつは、その音の立つのをひっそりと待っていて、偏執的に抱きしめるのだ。

人はそれぞれ固有の静かさを、死病のようなものとして、身体の内に抱えこみ、小心に押えこんでいるのかもしれない。無音の中では、その静かさがふくらみそうになるので、縁もない物音にひたすらこだわって、むりやり関係をつないで、紛らわそうとする。(古井由吉『哀原』池沼)

2015年3月12日木曜日

かすかなざわめきを発する線

前投稿に引き続き、在庫整理である・

…………

@RichterBot(シュナーベルの演奏するベートーヴェンのピアノソナタ第五番ハ短調の録音*を聴いて)
文字通りこの注目すべき解釈に唖然となった。
曲が突如としてほとんど触れられるほどに生き生きと躍動したからだ。見事だ!
*http://p.tl/Q-iK (スヴャトスラフ・リヒテル)

というわけで今まで聴いたことのなかったシュナーベル演奏のベートーヴェンのピアノソナタ第五番ハ短調を聴いてみる。





ーーここにはグールドがいる、それよりもなによりも、なぜか「分裂病的」な演奏という言葉が口から洩れそうになる。一楽章はグールドの演奏以上にグールドっぽい、ーーという言い方は語弊があるが、なんというのか、グールドの演奏のわたくしが好むエッセンスのようなものがある。他方、グールド自身のop 10の一楽章は急かされたような気分になって、わたくしの好むグールドはわずかしかないーー、もっとも、二楽章は、グールドの演奏をシュナーベルのものより断然好むが。

ベートーヴェンの作品のレコード録音では、和声の肉付きの薄いシュナーベルのような音の響きを追求した。それに対して、レコーディング・エンジニアはこんな応答をしている。「長距離電話で聞けば、そんなふうになりますよ。」(……)音楽によって他人とそして彼自身と遠くから接触をはかろうとするのが彼の物理学と形而上学なのだ。演奏している、誰を呼んでいるのかはわからない。自分自身の内部で誰が呼んでいるのかもわからない。ふたつの遠隔地のあいだの単なる空気の振動、ただ迷っているということのほかにはなにもわからないふたりの存在を結びつけ、かすかなざわめきを発する線。
彼がシュナーベルのうちに愛したのは、「ピアノに本来そなわる諸要素を無意識のうちにほぼ完全に否定しようとする意志」なのだという。ピアノはグールドの無意識だったのだろうか。やがてすっかり放棄してしまうときがやってくる。「ほとんどピアノは弾かない。一時間か二時間か、それも月に一度、接触をもつためだ。だがときにピアノに触る必要が出てくる。そうしないとちゃんと眠れなくなるのだ。」(ミシェル・シュナデール『グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)

リヒテルbotというのは、いろいろなことを教えてくれる。少年時、リヒテルの平均律一巻を愛したのだがーーグールドのもの以上にーー、第二巻には失望した。それについてもリヒテルが次ぎのように告白している。

@RichterBot: かなりうまくいった第一巻とは逆に、この第二巻の録音は屑だらけだ、それも何たることか、嬰へ短調や変ロ短調のようなもっとも重要な前奏曲とフーガ(たぶん全曲中でもっとも並外れた作品であり、第一巻のロ短調にもまったく劣らないと私は考えている)にそれがあるのだ。リヒテル

というわけで嬰へ短調 BWV883や変ロ短調BWV891を聴きなおしてみたのだが(これはかなり前のことだが)、BWV883、つまり14番は昔聴きすぎたので(あるいはなんとか弾きこなそうとしたので)、ここではBWV891をレコード録音版ではなく、のちにしばしば聴くようになったヴィデオ映像のグールド(フーガ)をまず挙げる。





少年時、グールドとリヒテル、それにグルダの三種類のレコードをもっていた。この演奏にかんしては、かつてはグルダのものをもっともよく聴いた。






順不同だが、グルダのプレリュード。





BWV891が好きなのだろう、最近はまったく異なったタイプの演奏家Edwin Fischerをも好んで聴く。





とはいえフッシャーは、シュワルツコップを伴奏するシューベルト『糸を紡ぐグレートヒェン』がなんといってもすばらしい。





グールドは誰か歌手を褒めるときには、シュワルツコップを引き合いに出す。

I'M A STREISAND freak and make no bones about it. With the possible exception of Elizabeth Schwarzkopf, no vocalist has brought me greater pleasure or more insight into the interpreter's art.(Streisand as Schwarzkopf

『糸を紡ぐグレートヒェン』は、もちろんゲーテの『ファウスト』からだが、ここではロラン・バルトを引用しておこう。

歴史的に見れば、不在のディスクールは女性によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性的になるのだ。男が女性的になるのは、性的倒錯者だからでなく、恋をしているあらである。(神話とユートピア、その起源は女性的なところをそなえた人びとのものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』p23)