このメモは、最近、折口信夫をいくらか読んで、ある種の「感銘」を受けたことにより、どんな方だったのかを(わずかばかりだが、主にネット上で)探ってみた断片である。
たとえば--少し前にも引用したが(参照)--、次のようなことを言う折口はなんとしても素晴らしい。
・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる
・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)
感銘を受けたとはいえーーそしてわずかしか折口を読んでないにしろーー、わたくしはどちらかというと折口のような思考(マレビトに代表される)を「脱神秘化」したいというヒネクレタ思いがあるので、彼に徹底的にハマルということは(いまのところ)ありえない、と思っている。
精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 〉La femme》だということである。 ……Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».》( (ラカン、S23、16 Mars 1976ーー玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë)
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以下、メモである。
柳田國男に出会う以前の折口信夫は、前近代的で生々しい「神憑り」から生まれた神道系の結社と深い関係をもち、しかしながら、「憑依」が明らかにしてくれるその神秘的な体験の諸相を、きわめて近代的な学問の方法、主体と客体の区別を撤廃してしまう「一元論」の哲学や北東アジア諸地域を対象とした比較言語学にして比較神話学の方法を用いて明らかにしようとしていた。(安藤礼二「折口信夫という「謎」」)
前(サキ)の世の 我が名は、 人に、な言ひそよ。 藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、 我ぞ(釋迢空)
父母のみ手はなれて/乞食に堕ちなむ宿世 持ち持ちて/現れ来る人の/相(折口信夫「乞丐相」)
ーー折口信夫は《顔に痣があるがゆえに両親にうとまれていると感じていた》(鎌田東二『宗教と霊性』)そうだ。
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◆室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より
◆折口信夫「『かげろふの日記』解説」
◆堀辰雄「伊勢物語など」より
二人とも(正岡子規、折口信夫)生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(持田叙子『折口信夫 独身漂流』1999)
父母のみ手はなれて/乞食に堕ちなむ宿世 持ち持ちて/現れ来る人の/相(折口信夫「乞丐相」)
ーー折口信夫は《顔に痣があるがゆえに両親にうとまれていると感じていた》(鎌田東二『宗教と霊性』)そうだ。
この書物、第一巻の校正が、やがてあがる今になつて、ぽっくりと、大阪の長兄が、亡くなつて行つた。さうして今晩は、その通夜である。私は、かん/\とあかるい、而もしめやかな座敷をはづして、ひっそりと、此後づけの文を綴つてゐるのである。夜行汽車の疲れをやすめさせようと言ふ、肝いり衆の心切を無にせまい為、この二階へあがつて来たのであつた。
かうして、死んで了うた後になつて考へると、兄の生涯は、あんまりあぢきなかつた。ある点から見れば、その一半は、私ども五人の兄弟たちの為に、空費して了うた形さへある。
昔から、私の為事には、理会のある方ではなかつた。次兄の助言がなかつたら、意志の弱い私は、やっぱり、家職の医学に向けられて居たに違ひない。或は今頃は、腰の低い町医者として、物思ひもない日々を送つてゐるかも知れなかつた。懐徳堂の歴史を読んで、思はず、ため息をついた事がある。百年も前の大阪町人、その二・三男の文才・学才ある者のなり行きを考へさせられたものである。秋成はかう言ふ、境(ミ)にあはぬ教養を受けたてあひの末路を、はりつけものだと罵つた。そんなあくたいをついた人自身、やはり何ともつかぬ、迷ひ犬の様な生涯を了へたではないか。でも、さう言ふ道を見つけることがあつたら、まだよい。恐らくは、何だか、其暮し方の物足らなさに、無聊な一生を、過すことであつたらうに。養子にやられては戻され、嫁を持たされては、そりのあはぬ家庭に飽く。こんな事ばかりくり返して老い衰へ、兄のかゝりうどになつて、日を送る事だらう。部屋住みのまゝに白髪になつて、かひ性なしのをっさん、と家のをひ・めひには、謗られることであつたらう。(折口信夫「古代研究 追ひ書き」)
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(折口の墓は)墓荒らしの跡のような、荒廃した風情。共同体から、何らかの理由で排除された人たちの墓、あるいは共同体の墓所から追放された人たちの墓なのではないか。そう思いました。その有様に緊張していると、その真ん中に、折口と春洋の親子塚がありました。その瞬間、私は、理解したように思ったのです。 折口が、徹底したアウトサイダーだという事を。日本文化の正統にたいして、刃をつきつけ続ける、確信的な反逆者なのだ、と。 巣鴨の染井墓地にある、柳田國男の墓の堂々たる姿と、誠に対象的な墓でした。これほど、一目ですべてが解ってしまう墓もないでしょう。折口は恐ろしい…。 『死者の書』も、『古代感愛集』も恐ろしかったけれど、この墓ほどは怖くない。墓をまごう事なく作品に、自らの存在証明にしてしまっている。少なくとも、その鋭利さにおいては、古代エジプトの王たちや、中国の皇帝たちに勝っているとすら思う。(福田和也『死ぬことを学ぶ』)
この折口ってのは、それまでの国文学の歴史をみんなひっくり返したとんでもない奴で、今どきの学者は折口の仕事の残り滓をあさって辛うじて偉そうな顔をしてるってほどの大学者なんだ。戦前はコカインは非合法じゃなかったから薬局いけば買えたんだ。それでも折口先生は吸いすぎて鼻の粘膜がボロボロになって血を噴いたっていうからね。実際鼻血だらけの原稿用紙が残ってるんだ。
(……)それに少年愛でね、弟子はみんな丸刈りにしてメガネをかけさせていた。それが先生のお好みだったんだな。目星をつけたのには、しつこくしつこく迫って、学問は頭からだけ入るもんじゃないとかいって襲ったり。与太じゃないよ、命からがら逃げた弟子がちゃんと書いているんだから。 (福田和也『人でなし稼業』)
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◆室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より
堀が女性的であったということは、声もそうだが、からだの肉つきにあぶらがあって、顔はまんまるかった。食べものも、おいもとか、じねんいもとか、卵料理が好きだった。唇は赤く髪も黒かった。病で床の中にいた時分、釈迢空が見舞いに軽井沢から来られる日に、彼は何を遠慮したのか、今日は起きられないと先生に言ってくれ、僕は起きないからと奥さんのたえ子に言った。だってそんなに元気なのにどうしてお会いにならないのですと言うと、訳はいわないで寝たきりだと言ってくれと、会わなかったのだ。たえ子はきっとお会いするのが窮屈なのであろう、それに釈さんとこの前会った後で熱が出たからそういうのであろうと思ったが、私はそこに病人としてのたしなみを見る気がした。折角見舞いに来た尊敬する人の気に反いて、会わないということに堀がその気になったことに、病人のわが儘(まま)のかなしみがあって、はなはだ女性的であると私は思った。僅かにそのような我儘というものの心理は複雑なものであった。釈迢空は堀辰雄に好意をもっていたし、好意は非公式の愛情をも潜めていたものらしい、堀もそれをうすうす知っていたから、おとろえた姿をこの人の眼に見せたくなかったのだろう。(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)
◆折口信夫「『かげろふの日記』解説」
一人を褒めるのに、も一人をけなすと言ふ行き方は、甚だ不幸な方法で、私などは、其をせぬことにしてゐるのだが、今の場合あまり適切に、一言二言で言ひきつてしまふことが出来るから、さう言ふ見方をさせて貰ふ――のだが、過ぎ去つた芥川龍之介、この人の王朝は、今昔物語式には最的確な王朝物は書いたけれど、源氏・伊勢が代表する平安朝の記録と言ふところには達しなかつた。堀君は心虚しうして書く人だけに、極めておほまかにではあるが、おほまかだけに、王朝貴族の生活のてまを適切に捉へることが出来た。源氏の論文を書いた人の中には、私の尊敬してゐる人々が多いが、その方々にも、堀君の「若菜の巻など」は、是非読んで頂きたいと思つてゐる。其ほど、源氏の学史にとつては、大きな提言をしてゐる。
「伊勢物語など」は、堀君の詩人としての権威を、感じさせる文章である。りるけのどういのの悲歌を引いて、神に似た夭折者を哭し、その魂を鎮めようとする考へ方をひき出して来てゐる。その点は、古代日本人に似てゐるが、又違ふ。西洋人のやうに、其を自分の慰め・救ひとするのではなく、たゞ人の魂を鎮めることにしてゐたと言ふあたり、……併しどちらにしても、此鎮魂的なものが、一切のよい文学の底にあることになる。
◆堀辰雄「伊勢物語など」より
折口先生の説によると、敍景歌といふものは、先づ最初、旅中鎭魂の作であつた。昔、男が旅に出るとき、別れにあたつて、女が自分の魂の半分を分割して與へる。又、男も自分の魂の半分を分離してわが家に留めるものと人々に信ぜられてゐた。旅中、その妻の魂を鎭めてしづかに自分に落ち着かせるやうにと、男はその日に見た旅の景色などを夜毎に詠んだのである。さういふ歌がだんだん萬葉の中頃から獨立して、純粹な敍景そのものの歌となつていつた。しかし、すべての日本の敍景歌の中にはさういふ初期のレクヰエム的要素がほのかに痕を止めてゐるのである。――そのやうにわが國に於ける敍景歌の發生を説かれる折口先生の創見に富んだ説は何んと詩的なものでありませう。僕はこの頃折口先生の説かれるかういふ古い日本人の詩的な生活を知り、何よりも難有い氣がいたしてゐる者であることを、この際一言して置きたいと思ひます。(堀辰雄「伊勢物語など」)