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2017年10月24日火曜日

ベルトルッチの女たち

わたくしはかつてから映画をそれほど観るほうではない。最近は環境が悪いせいもあり、まったくみない。新しい作品を小さな画面で観る気にはまったくならない。

だが愛する女優はいた。たとえばベルトルッチの二人の女は、強い印象が残っている。

マリア・シュナイダーとドミニク・サンダはまったく異なったタイプだなどというなかれ。それは外見だけである。









たぶん趣味があう(?)のであろう・・・ゴダールの女たちでも、コッポラの女たちでも、あるいはエリック・ロメールの女たちでもないのだ、今思い返せば、わたくしが真に思い返すのは。

◆『光をめぐって』(1991)より(ベルトルッチインタヴューは、1982.10帝国ホテルにて)

蓮實重彦)……ある一つの事実に気がつきました。それは、あなたの映画では、人は決してベッドで寝られないという事実です。まるで、ベッドから追いはらわれるように、公園とか庭先の椅子といったところで熟睡するのです。

ベルトルッチ)ああ、そうだろうか。

――ええ、もちろん、あなたの映画にベッドはたくさん出てきます。でも、そこでは誰も熟睡できず、むしろ不安な表情で目覚めている。『革命前夜』の美しい叔母は、一晩、ベッドの上で眠れぬ夜を過し、『暗殺の森』のコンフォルミストも、冒頭から正装のままベッドに横たわり目覚めていた。彼らは、ベッドの上で眠れないだけではなく、そこで愛戯にふけることもできない。『ラストタンゴ・イン・パリ』でも『1900年』でも、男女は、床の上や藁の中といったところで交わり、もっぱらベッドを避けているようです。後者でのロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューとは、女に誘われてその部屋に行き、着ているものを脱ぎすてさえするのですが、ベッドに裸身を横たえる女が突然引きつけを起してしまうのでそのまま何もできない。ベッドに横たわる唯一の人間は、『ラストタンゴ』のマーロン・ブランドの死んだ妻ばかりです。こうしてみると、あなたの映画ではベッドが不吉な場所ということになるのですが……。

ベルトルッチ)なるほど、おっしゃる通りです。そう、こういうことがいえるかもしれません。私の父の小説に『寝室』というのがあります。イタリア語では文字通りベッドのある部屋となりますが、その小説は私や兄弟たちの少年時代は、家庭では『ベッドルーム』と英語で呼ばれていました。父が、とりすましたふりをしてそう呼んでいたのです。もちろん、子供たちにはベッドルームという音の響きが何を意味しているかはわからなかった。十五、六歳になって英語を習ってから、はじめてこの小説の題の意味が理解できたのです。

もし私の映画にそうしたイメージが恒常的に現れるとすれば……。

――もっと多くの例も引けますよ(笑)。

ベルトルッチ)……それはまぎれもなく、タブーを意味しています。フロイトのいう原光景という奴です。つまり、そこで両親がセックスをする場所であったわけで、この原光景は、それを見る必要はない、想像されるだけでよいのだとフロイトはいっています。しかし、そんなことは、こうした場面を撮るときは考えてもいなかった。

――意図的な表現ではなかったわけですね。

ベルトルッチ)いや、自分ではあなたに指摘されるまで考えてもいなかったことです。私は、撮影にあたっては、理性的、合理的ではありません。私はちょっと音楽を演奏するように撮るのです。したがって理性に導かれてというよりは、情動に従って映画を作ります。ですからそうした問題を模索するといったことはしません。たしかピカソが、「私は探すのではない、発見するのだ」といいましたが、まあ、それに近い状態です。

しかし、こうした統一性を誰か他人が発見してくれるのは、何とも不思議な気がします。なるほどおっしゃる通り、ベッドはずいぶん出て来ますね(笑)。で、『革命前夜』では、二人はベッドの上にいるが、女が写真をベッドの上に置いてみたりして遊んでいて、実際に二人が抱き合うのは別の場所です。そう、こうした映画は、自分が成熟した大人とは思っていない人間たちを描いているわけだから、ベッドで抱擁することができない。ベッドで愛戯をするのは、大人になっていなければいけないのです。デ・ニーロはドミニク・サンダと農家の麦藁の中で寝るし、ドパルデューは人民の家で、ステファニア・サンドレッリと抱き合う。レーニンの肖像の前で。……