でもアナーキーってなんだっけな? 穴空きだよな、まずは。《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)ってのが、穴だ。
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。
nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )
ーーこの文の「性関係はない」は、「性」を取り払って(たぶん多くの人が抵抗があるだろうから)、非関係といってもよいのである。《穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport》(S22, 17 Décembre 1974)
そして非関係の 穴埋めに耽るのが、我々の生だ。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋める boucher ce trou ことに自ら奉仕する 》(ラカン、S18)ってわけさ。われわれは皆倒錯だ。ラカンの「皆妄想する」とはその意味だよ。父の名も倒錯の一種だ。《後期ラカンは父の隠喩について皮肉を言い得た。彼は父の隠喩もまた「一つの倒錯」だと言った。彼はそれを 「父の版 père-version」と書いた》ミレール、2013)。père-version とは、「父に向かう vers le père 」動きのヴァージョンという意味だ。
だが母のヴァージョンの倒錯と父のヴァージョンの倒錯があるんじゃないか、これはラカン派じゃなくて、最近のクリステヴァが言っているのだが、Mère-versionと。旧来の神経症というのは父の版の倒錯であり、前エディプス的症状(倒錯・精神病)が母の版だね、厳密さを期さずに言えばだが。
いずれにせよ穴埋めする人間はみんな反アナーキーさ。重度の分裂か自閉症以外はな。
そもそもアナーキーなんてまともに信じちゃいけない。言語自体が穴埋めの道具なんだから。せいぜいアナーキーとの境界をたむろするぐらいだね。ラカンは《知と享楽のあいだに、波打ち際がある entre savoir et jouissance, il y a littoral 》(「リチュラテールLituraterre」)と言っているが、やっぱりこの波打ち際はたまには彷徨わなくっちゃいけない。
・文学者は、社会がアナーキーに突入する前に、あらかじめアナーキーの境に住んでいる番人みたいなものだと思っています。
・作家という職業を外側から考えてみると、何で喰わしてもらっているのか、考え込んでしまいます。よせばいいのに、その理由をあれこれ探ります。やはり、生死の境のアナーキーな場所に居留守する役割に対して、銭をもらっているんじゃないですか?(古井由吉『人生の色気』)
ーーこの古井由吉の言い方を受け入れるなら、ではなぜこの作家=アナーキーの境の住人が、現在、たいして必要とされなくなったんだろうか? ほかの領域にいったって? たとえば映画人だって(アダルトビデオ作家でさえ)いまはみな小粒だよ、小指のない代々木忠やそのむこうにいる神代辰巳、若松孝二のたぐいってのはもはやいないだろ。代々木忠の少年時代の暴れ方の噂があるが、彼にくらべれば安吾の少年時代の暴れ方なんてカワイイもんさ。
⋯⋯⋯⋯
ところで社会自体がすでにアナーキーに突入していたらどうだろう? 母胎そのものが非秩序だったら?
かつての作家とは、社会の象徴秩序という母胎を揺らめかす機能を、多寡はあれ、もっていた筈だ。そしてそれが尊ばれた。だが、現在の社会の母胎が、資本の欲動という非イデオロギー的イデオロギー=アナーキーに変貌してしまっているとしたら、現在の作家の機能とは(社会共同体的にいえば)時代に同調するイデオロギーに過ぎない。すくなくともアナーキーとの境を彷徨うことは、反時代的な行動様式ではない。
反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。(ニーチェ『反時代的考察』)
ラカン派文脈では、アナーキーは非全体 pastout(穴t rou、S(Ⱥ))という言葉で表現されものと相同的だ(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。たしかに人は、非全体に遭遇することは必要だが、遭遇したままではにっちもさっちもいかなくなる(たとえば「原マゾヒズム」が現われ、自傷・自殺への道が容易に開かれてしまう)。だからそこから距離を取らなければならない。
最後のラカンは、個人の臨床においてだが、次のように言っている(以下の文の「症状との同一化」の「症状」とは原症状のことであり、大他者の非一貫性(非全体 Ⱥ)という意味)。
だがこれは「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」(フロイト)においても同様である。現在、資本の欲動という非全体に遭遇していると仮定したら、そこから距離を取る方法を模索しなければならない。したがって現在、この「役割」を担う「真の知識人」という「反アナーキー的作家」が必要なのではないだろうか? 浅田彰が加藤周一の事例をだして「普遍的知識人」という講演をこの11月にするらしいがね。
ジジェクが次のように言うときも、バディウの「現在は真の(知的)リーダーが必要だ」という含意がその裏にある。
この父の機能は、個人の臨床においては、サントームと呼ばれる。
あるいは、《最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome》(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF)
⋯⋯⋯⋯
以下、上に記した観点がどのような考え方に由来するかを、わたくしなりにーージジェクに依拠しずぎているキライがあるかもしれないがーー示す。
マーク・ロスコ Mark Rothko からもうひとつ作品を掲げる。
享楽は赤色としたら、ジジェクが言っている「享楽のどろどろした海」に浮かぶ象徴界とはこの外枠の暗灰色を取り払った状態の中心の暗灰色箇所ということになる(ジジェクはそうは言っていないが、ここでは彼の表現を活かしたい)。
ラカンは、アリストテレスの語彙に依拠しつつ、オートマン/テュケー(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])の対比を論じて、シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」/「現実界との出会い rencontre du réel」と区別している(S11)。
そしてテュケーについての定義は次の通り。
そして1970年代前後に、主人の言説から資本の言説への移行ということを言っている。これは、若きジジェクの記した「象徴的秩序の真ん中に開いた穴(現実界)」から「享楽(現実界)のどろどろした海に浮かぶ孤島(象徴界)」に相当する。
ここでドゥルーズ&ガタリからーーやや異なった意味合いで使用している表現だがーー引用しよう。
現在の政治経済システムにおいてはーー日本はことさら目立ってーー「クモ」が跳梁跋扈している。欧米諸国ではかろうじて「父の機能」の残存物となっている「一神教」の国ではない不幸?!ーーいやこれには議論があるだろう(参照:母なる神々の国日本)。
だがすくなくともこうではある。
さて話を戻せば、最近のジジェクは次のように言っている。
ようは新自由主義の時代とは、母胎そのものがアナーキー(カーニバル)になってしまった時代だという考え方だ。「享楽のどろどろした海」にわれわれは浮かんでいるのである。享楽の海、すなわち「本源的な欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires」(ラカン)の海に。
ここでマルクスを挿入しよう。
柄谷行人は、この箇所を引用して次のように言っている。
だれもが否定できない現在の(すくなくとも先進諸国の)世界の有様だろう。
1970年以前の主人の言説の時代ーーラカンにとって言説とは「社会的つながり lien social」という意味であるーーは、世界は多かれ少なかれ、政治的言説、宗教的言説(イデオロギー的言説)、文化的言説、そしてプラスアルファとして経済的言説で成り立っていた。
1968年の「父の死」をへて、1989年の「イデオロギーの死」により、(すくなくとも先進諸国の)世界の母胎は、ほとんど経済的言説(非イデオロギー的イデオロギー)のみになってしまっている。これが資本の言説の時代であり、「享楽のどろどろした海」とはこの比喩である。これまた誰が否定しうるだろうか。
このまま放っておけば、中心の灰褐色部分(ジジェクの別の表現では「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」)は漸減してゆくに相違ない。
ま、現在の「ほどよく聡明な=凡庸な」インテリってのは、享楽の海という釈迦の掌で、小倫理委員会的活動をしている猿がほとんどだよ。母胎が決定的に変貌していることにいまだ無知のままの。これがジジェクや柄谷の認識だね。
分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。
En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)
だがこれは「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」(フロイト)においても同様である。現在、資本の欲動という非全体に遭遇していると仮定したら、そこから距離を取る方法を模索しなければならない。したがって現在、この「役割」を担う「真の知識人」という「反アナーキー的作家」が必要なのではないだろうか? 浅田彰が加藤周一の事例をだして「普遍的知識人」という講演をこの11月にするらしいがね。
ジジェクが次のように言うときも、バディウの「現在は真の(知的)リーダーが必要だ」という含意がその裏にある。
真の「非全体 pas-tout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
ーーこれはイデオロギー的「父の名」を取り払って「非全体」に遭遇せねばならぬが(ジジェク文脈ではヘーゲルの「世界の夜 Nacht der Welt」との遭遇)、しかしながらそれだけでは精神病的な奈落に落ちこんでしまい、ゆえになんらかの別の支え(父の機能)が必ず必要だという意味でもある。
ラカンは次のように言っている。
このラカンの「父の名を使用する」という「父の機能」は、柄谷行人文脈では「帝国の原理」と相同的である(参照:「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン))。
ラカンは次のように言っている。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)
このラカンの「父の名を使用する」という「父の機能」は、柄谷行人文脈では「帝国の原理」と相同的である(参照:「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン))。
この父の機能は、個人の臨床においては、サントームと呼ばれる。
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2009)
あるいは、《最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome》(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF)
⋯⋯⋯⋯
以下、上に記した観点がどのような考え方に由来するかを、わたくしなりにーージジェクに依拠しずぎているキライがあるかもしれないがーー示す。
「正常」な状態では現実界は欠如、すなわち(ロスコの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、現実界という水族館が象徴界の孤立した島々を包み込んでいる。
言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる drives」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった。(ジジェク『斜めから見る』1991)
マーク・ロスコ Mark Rothko からもうひとつ作品を掲げる。
享楽は赤色としたら、ジジェクが言っている「享楽のどろどろした海」に浮かぶ象徴界とはこの外枠の暗灰色を取り払った状態の中心の暗灰色箇所ということになる(ジジェクはそうは言っていないが、ここでは彼の表現を活かしたい)。
ーーすなわち暗褐色の享楽のどろどろした海に囲まれている灰褐色の象徴秩序である。これが資本の欲動の時代の図でありうる。
ジジェクが芸術について語っている言葉は、評判が悪いのを知らないわけではない。だが我々は、常に眉唾で読めばいいのであり、そして上の文は映画をめぐって書かれているのだが、比喩自体はとても「美しい」。かつまた示唆溢れる。
ジジェクのいう意味作用のネットワークとは「シニフィアンのネットワーク」のことである。ブラックホールとは、「現実界との出会い」にかかわる。そしてもちろん現実界は非全体のことである、《現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)。
ジジェクが芸術について語っている言葉は、評判が悪いのを知らないわけではない。だが我々は、常に眉唾で読めばいいのであり、そして上の文は映画をめぐって書かれているのだが、比喩自体はとても「美しい」。かつまた示唆溢れる。
ジジェクのいう意味作用のネットワークとは「シニフィアンのネットワーク」のことである。ブラックホールとは、「現実界との出会い」にかかわる。そしてもちろん現実界は非全体のことである、《現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)。
ラカンは、アリストテレスの語彙に依拠しつつ、オートマン/テュケー(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])の対比を論じて、シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」/「現実界との出会い rencontre du réel」と区別している(S11)。
そしてテュケーについての定義は次の通り。
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)
ラカンにとって現実界は、無法である。
…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
そして1970年代前後に、主人の言説から資本の言説への移行ということを言っている。これは、若きジジェクの記した「象徴的秩序の真ん中に開いた穴(現実界)」から「享楽(現実界)のどろどろした海に浮かぶ孤島(象徴界)」に相当する。
危機 la crise は、主人の言説というわけではない。そうではなく、資本家の言説 discours capitaliste だ。それは、主人の言説の代替として、今、開かれている。
私は、次のようにあなた方に言うより他にない。すなわち、資本家の言説は醜悪な何か、そして対照的に、狂気じみてクレーバーな何かだと。そうではないだろうか?
カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。
結局、資本家の言説とは、我々が描き出した言説のなかで最も賢いものだ。もっとも、それにもかかわらず、破滅に結びついている。
この言説は、じじつ、支えられない。支えられない何かのなかにある。(⋯⋯)それはルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。
自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私意訳, 原文pdf)
ここでドゥルーズ&ガタリからーーやや異なった意味合いで使用している表現だがーー引用しよう。
・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.
・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)
資本家の言説、あるいは資本家の器官なき身体とは、市場原理主義あるいは新自由主義のことである(参照:《みずからのトゲを抜こうとする努力》から、《むき出しの市場原理》への移行)。
たとえば福島原発災害の後、資本の器官なき身体は、除染にはクモのように群がったが、金目になりそうにない被災者住宅建設には知らんぷりだ。これが器官なき身体である。
器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
現在の政治経済システムにおいてはーー日本はことさら目立ってーー「クモ」が跳梁跋扈している。欧米諸国ではかろうじて「父の機能」の残存物となっている「一神教」の国ではない不幸?!ーーいやこれには議論があるだろう(参照:母なる神々の国日本)。
だがすくなくともこうではある。
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
さて話を戻せば、最近のジジェクは次のように言っている。
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
ようは新自由主義の時代とは、母胎そのものがアナーキー(カーニバル)になってしまった時代だという考え方だ。「享楽のどろどろした海」にわれわれは浮かんでいるのである。享楽の海、すなわち「本源的な欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires」(ラカン)の海に。
ここでマルクスを挿入しよう。
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
柄谷行人は、この箇所を引用して次のように言っている。
株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級不均衡を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗に伴って起こっていることである。(‟Capital as Spirit“ 2016, PDF)
だれもが否定できない現在の(すくなくとも先進諸国の)世界の有様だろう。
1970年以前の主人の言説の時代ーーラカンにとって言説とは「社会的つながり lien social」という意味であるーーは、世界は多かれ少なかれ、政治的言説、宗教的言説(イデオロギー的言説)、文化的言説、そしてプラスアルファとして経済的言説で成り立っていた。
1968年の「父の死」をへて、1989年の「イデオロギーの死」により、(すくなくとも先進諸国の)世界の母胎は、ほとんど経済的言説(非イデオロギー的イデオロギー)のみになってしまっている。これが資本の言説の時代であり、「享楽のどろどろした海」とはこの比喩である。これまた誰が否定しうるだろうか。
このまま放っておけば、中心の灰褐色部分(ジジェクの別の表現では「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」)は漸減してゆくに相違ない。
ま、現在の「ほどよく聡明な=凡庸な」インテリってのは、享楽の海という釈迦の掌で、小倫理委員会的活動をしている猿がほとんどだよ。母胎が決定的に変貌していることにいまだ無知のままの。これがジジェクや柄谷の認識だね。