音楽がなければ、生には何の意味もありませんよ。音楽は私たちの深部に触れます。音楽は、私の人生で途方もなく大きな役割を果たしました。音楽を解さない人間にはまったく興味がありませんね。ゼロですよ。(シオラン『対談集』)
いやあ、ひどいこというな、シオランって。ツイッターで拾ったんだが、こういった文にすぐさま「共感」しちゃいけない、とくに音楽好きのみなさんは。
音楽とは何かを問うことがまず必要である。
幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)
風の音、虫の音、人の声・・・、すべては音楽だ。
そしてなによりもあの波の音。《群青といふ名の囀りを聞いてゐし》(安東次男)。
ああ、あのボクの恋路ヶ浜ーー。
おお わが沈黙!……魂の中の建築、
だが千の甍の金の溢れる、屋根!
Ô mon silence!. . . Édifice dans l’âme,
Mais comble d’or aux mille tuiles, Toit!
ーーヴァレリー「海辺の墓地」
もちろん恋路ヶ浜には、「千の甍 mille tuiles」 だけではなく、「千のシーニュ mille signes 」「千の壺 mille vases」(プルースト)、「千の声 mille voix」「千の穴 mille orifices」(ドゥルーズ)もあった。ただし千の壺はおおむね閉ざされている(プルーストの云う「閉ざされた壺 mille vases clos」)。ようは「半ば開かれた箱 boîtes entrouvertes」(ドゥルーズ)に出会うのは僥倖であるだろう・・・
⋯⋯⋯話を戻そう。《――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。》(三好達治)
人は母胎内では母の声はもちろんのこと、母の心音や血液の流れなどをきいている。これこそ真の根源にある音楽だ。
出生後に限ってもよい。乳幼児の欲動興奮とは、なによりもまず身体の興奮だ。お腹が減った、喉が乾いた、寒い、暑い、糞尿が不快だ、寝れない等。
母(あるいは養育者)はこの身体の興奮の世話をする。世話をする箇所は、身体と外界との境界、つまり、口唇、肌、肛門、性器、目、耳などの箇所だ。
各々の母の世話の仕方には各々の癖がある。たとえば、性器を触って子供を寝かしつける癖のある母があり、肛門を入念に吹き清める潔癖症の母がある。耳たぶや首筋、あるいは髪を熱心に愛撫する癖のある母もいる。
こうして母は幼児の身体のうえに欲動興奮を飼い馴らすための徴をつける。ラカンはこれを《享楽の侵入の記念物》と呼んだ。そしてこの徴づけ、つまり母のどの世話の徴も(基本的には)「母の言葉」が伴っている。この母の言葉が「ララング」と呼ばれるものである。
ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langage が、母の言葉 la dire maternelle と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、以後の愛の全人生の要と考えた。(コレット・ソレール、2011(英訳2016), Colette Soler, Les affects lacaniens)
これこそわれわれ誰にでも刻印されている音楽である。
かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(ジョン・ケージ『小鳥たちのために』)
西欧音楽のみにホモセンチしている連中は、たんなる聾である。
ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』)
音楽、ーー魂をふくらませるポンプ。巷間の音楽愛好家は、《なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか》(ジョン・ケージ)
私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)
私は音楽を愛する人間が嫌いだ。
何年か前のこと、十匹ぐらいの猫を飼っているある婦人がジャン・ジュネを咎めて尋ねた。
《あなたは動物が嫌いなんですね》
《私は動物を愛する人間が嫌いなんです》
とジュネは答えた。これこそまさしくサルトルが人類に等しくとった態度なのである。(ボーヴォワール『女ざかり』)
されには別の角度からこうも言いうる、《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)
そもそもすでにカントが《すべての芸術のうちで音楽は最低の地位を占める》と書いているではないか。
感覚的刺戟と感動とを問題にするならば、言語芸術のうちで最も詩に近く、またこれと自然的に結びつく芸術即ち音楽を詩の次位に置きたい。音楽は確かに概念にかかわりなく、純然たる感覚を通して語る芸術である、従ってまた詩と異なり、省察すべきものをあとに残すことをしない、それにも拘らず音楽は、詩よりもいっそう多様な仕方で我々の心を動かし、また一時的にもせよいっそう深い感動を我々に与えるのである( …)これに反しておよそ芸術の価値を、それぞれの芸術による心的開発に従って評価し、また判断力において認識のために合同する心的能力〔構想力と悟性〕の拡張に基準を求めるならば、すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占めることになる。(カント『判断力批判』篠田英雄訳)
せめてこのくらい廻り道をしてからーーいまだ迂回が十分でないのは承知しているがーー、「音楽がなければ、人生は錯誤だ」と独り心の内でーー他人にいうなら小声でーー、囁かなければならない。
音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』)
ーー 《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)
と引用したら、ヒトラーが愛した、いわゆる「総統のピアニスト」エリー・ナイ Elly Ney のシューマン、Etudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5 がきこえてくる。
いやあ、二曲目の Antonietta Rudge のスクリャービンop. 11もやたらにいい。ボクハコノ美ヲ《解さない人間にはまったく興味がありませんね。ゼロですよ。》(シオラン)
ーー最後に悪い事例を示しておいた。賢明なる音楽愛好家のみなさんは、これをもって他山の石とすべきである。