女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る(メリメ『カルメン』)
この「女と猫」は、ボードレールが言ったと長いあいだ思い込んでいたがーー似たようなことはたしかにボードレールも言っているし、20才前後に読んだ吉行淳之介のエッセイには同じ文がボードレール曰く、となっていたーー、厳密にはメリメの言葉であるのを最近知った。
とはいえ、正確には次のように訳すべき文である。
けれどもその女は、例の女と猫のいつものやり方に従って、人が名を呼ぶ時にはやってこず、名を呼ばない時にやってくる… mais elle, suivant l'usage des femmes et des chats qui ne viennent pas quand on les appelle et qui viennent quand on ne les appelle pas …(Prosper Mérimée, Carmen, 1845、柏木隆雄訳)
いやあ実に精神分析的な文である。
行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
人間の誰でもが持っている原初の《偉大な母なる神 große Muttergotthei》(フロイト、モーセと一神教)は、猫のように行ったり来たりする全能の権力者に他ならない(しかも最初の誘惑者でもある)。
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
父なる神などとは、後付けの寝言に過ぎない。
《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(フロイト、1939)としても《父は、母なる神の諸名の一つに過ぎない》(ジャック=アラン・ミレール、2003)のであり、エディプスの父がわれわれの根源ではない。
メリメが活躍した当時の仏文学においては、実にスグレタ言葉が自由に言われたものである(いまではフェミニストたちのオカゲで精神の自由度が失われてしまった)。
たとえばミュッセはどう言ったか。
女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut( Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)
ここにはすでにラカンがいる。
大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
われわれは何よりもまず、原初の偉大な母なる神を認めなければならない。あの猫のような存在を。そして《すべての女性に母の影は落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。》(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
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原母子関係では、まず分離不安がある(母胎内での始原のエロスの喪失にかかわる)。ようは出生直後からの母の出現-消滅への苛立ち。
次に母の過剰現前不安(融合不安)がありうる。フロイトの母に貪り喰われる不安(ラカンの母なる鰐の口)。
母親への依存性 Mutterabhängigkeitにおいて…驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen?)というのは、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト「女性の性愛」1931年)
このふたつの原不安が人間の基盤であり、ようは「母は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る」せいである。
すなわち分離不安とは、エロス(融合)が喪われる不安。分離(タナトス)への恐れ。融合不安とは、究極のエロス(融合)=死への恐怖から来る不安であり、タナトス化したい(母から分離したい)欲動にかかわる。
受動性/能動性の二項で考えてもいい。
母親のもとにいる小児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。小児は母親によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母親の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母親の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。
その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母親を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 Uber die weibliche Sexualität』1931年)
知的退行の21世紀には、こういったことさえまともに認識していないマヌケインテリばかりが揃っている。
われわれは、メリメの、ミュッセの、あるいはボードレールの「オンナノセカイ mundi muliebris」の19世紀を学び直さねばならない。