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2018年9月22日土曜日

無能な観察者たち

・・・いやあ、ボクはけっして名を挙げないよ。そんなシツレイなことはけっして。でも彼の言説は倒錯の典型構造だな、それは歴然としてる。自らも半ば気づいているのかも。

まず「簡潔版:倒錯の構造」で引用したラカンの三文を再掲しよう。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)

………

倒錯者の最も基本的な構造は、次の機制にある。

⑴ 二者関係における子供の最初の大他者は母である。その母なる大他者の享楽の道具になる。

⑵ だが道具になりつつ母なる大他者を支配しようとする(受動ポジションから能動ポジションへの移行)。

⑶ 第三の形象である父(父なる大他者)は無能な観察者に格下げされる。


この構造はのちの人間関係(社会的つながり)でも反復される。

たとえば、ツイッターで10000人のフォロワーがいる人物Aを例にとろう。Aは10人の母なる大他者を想定している。父なる大他者は9990人である。

① Aは、10人のフォロワーの享楽の道具になる。
② Aは、道具になりつつも10人のフォロワーを支配しようとする。
③ Aの、9990人のフォロワーは無能な観察者に格下げされる。

ーーこれはあくまで仮の事例であることを強調しておくよ。

で、③が最も楽しみなのさ、インテリ倒錯者ってのは。だからおバカな神経症的観客がたくさんいたほうが楽しみが増える。したがって9990人のフォロワーへのサービスもときにする。

晩年のラカンの定義では神経症者もじつは倒錯者なんだけどさ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

コレット・ソレールで補えば次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

この父の版の倒錯者たちを嘲弄するのがとっても楽しいんだよ、 いわゆる善人たちをね。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)

わかるかい?

なにはともあれ、ほどよい聡明さ=凡庸な鳥語を読む楽しみ方ってのはあるのさ。もうボクはそれもやめちゃったけど、でもたまに覗くと笑っちまうね。

どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)