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2019年1月31日木曜日

渇いた心

いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことだろう。……取るに足りぬことのようでも、微妙な違いを、小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、この机を、通りを、人びとを、刻み煙草入れを見ているかを言うべきだ。(サルトル『嘔吐』)


もうすぐテト祝いで、数日前から、妻の従姉にあたる米国すまいの越僑女性が娘とともに我が家に泊まっているのだけれど、じつに色っぽいね、二人とも。気が散ってしようがないよ。

後ろ姿がいいんだな、とっても。

こんな感じの美形なんだ、母親のほうは。




顔はたいしたことないんだけど、それはこの際どうだっていいさ。

二人とも三年前だったかに一度きているのだけれど、娘のほうはまえよりさらに色っぽくなったな、--口にしがたいよ。昨日、いっしょにテニスしたんだけど。





ーーいやあ、こんなのぜんぜんかなわない、ムスコとあやしい関係にならないか、そればっかり心配してんだけど。

家じゅう、女臭いんだな、ビョウキになりそうだよ、

こういったときには詩でも読むぐらいしかできないな


それは滴り落ちる
こわれた水道の水のように
せきとめてもせきとめても滴り落ちる
すべてが徒労に帰したあとで
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる

ーー黒田三郎「微風のなかで」『渇いた心』

日記をつけるときには、つぎのことが危険だと思う。すなわち万事誇張して考えること、見張っていること、たえず真実を歪めることである。(サルトル『嘔吐』)