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2019年2月1日金曜日

人生はコピーである

群青といふ名の囀りを聞いてゐし(安東次男)


わたしは海の轟きをきいた。そして、詩人たちがよくやるように、海に向って歩み、潮風を浴びながら寄せてきてはひいていく海の声にききいった。実際、海のざわめきに耳をすます詩は少なくない。

わたしはベッドの上で上体を起した。そして、小説の中の主人公たちがよくやるように、薄暗い部屋の中をぼんやりと眺めまわした。実際、ベッドの上で主人公が目をさますところからはじまる小説は少なくない。(後藤明生『壁の中』)

現代詩アンソロジーで、それなりの数の詩を読んでいると、ああまた海か、とシニカルになってしまうのはある程度は致し方ない。あまりにも海海海海海なのだから。それぞれの詩人にとっての海の光景は、切実な記憶映像として(その多くは)あるに相違ないのだろうけれど。

稀有の詩人のみが、古典詩劣化コピー版「海」の罠に自覚的で反抗するのだろう。

たとえば吉岡実。

・真夏の反現場性の海の輝く
・夏の午後は入浴す
・ごぞんじですか? /ぼくの想像姙娠美/海へすすんで行く屍体/造られた塩と罪の清潔感!
・「この夏もある海岸で/黄色い海水着をきる/娘」/の裸を妄想せよ
・母親は海のそこで姦通し/若い男のたこの頭を挟みにゆく
・海の上のコレラに罹らぬために
・夢みる鋸歯の海を/ラジィカルに泳ぐ/老人をたたえよ

寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。

類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」)