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2019年1月5日土曜日

症例タマキン

いやあ昔の日本的ラカン注釈者に準拠してなにやら言ってくるのは、もうやめにしてくれないかな。そしてボクは基本的にはメールに直接には返事しない。二者関係の泥沼にはまるからな。応答するならここに記す。

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ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。(斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年)

ーーなどとラカンは言っていない。 表面的に読めば、そのように思い込める箇所があるというだけで、これは超訳ラカン、骨抜きラカンの典型である。

おそらく「享楽の図」あるいは「ボロメオの環」をチラ見したのか、どこかの三文解説書を真に受けてああ言ったんだろうが。

アンコールに現れる「享楽の図」とはこうだ。




ーーいやあ実にわかりやすい図だ、上っ滑りラカン読みが誤読するには(参照)。


現在、若い世代のラカン派リーダーとされるロレンゾ・チーサは30歳のときに(2006年)、こう言っている。

(すべての)享楽は、常に対象aの享楽と等しい。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、2006)

これが「より正統的な」解釈である。斎藤環の言う《「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」ファルス享楽、剰余享楽、他者の享楽》は、実質上、すべて剰余享楽である。

ま、でもことさら斎藤環を批判するつもりはない。大兄弟の時代に、あなたとオトモダチのオニイサンとして啓蒙書を記せば、あのような浅はかな誤謬で満ち溢れる書が生まれるに決まっているのである。資本の言説の時代の「症例」として読めば、興味深い事例としての「症例タマキン」である。

そしてあのような言説は次のような結果を生む。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

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ラカンはファルス享楽に相当する神経症者における対象aをまがいの対象a、囮の対象aと呼んでいる。

・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)

他方、ボロメオの環に現れるJs(意味の享楽、見せかけの享楽)とは、フェティッシュとしての見せかけaである。






セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

囮の対象aと見せかけの対象aとは、晩年のラカンの文脈では似たようなものである。なぜなら神経症者のファルス享楽は、父の版の倒錯だから。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

ただしフェティッシュとしての対象aの享楽のほうがより身体の享楽に接近しているのは間違いがない。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


さて三番目の「無 rien」に最も近似している 対象a とは、他の享楽JȺ(女性の享楽)であり、これも剰余享楽である。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléancẹ̣ (穴埋め)を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

この女性の享楽については、「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」にて詳述してあるのでここでは一文だけの引用にしておくよ。


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最晩年の1977年のラカンは享楽について次のように言っている。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


ジャック=アラン・ミレールは去勢について次のように言っている。

(- φ) は去勢 le moins phi を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

コレット・ソレールは、この[去勢 le moins phi」に相当するものを「 le moins-de-jouir 」と表現しているが、これ自体「享楽の控除」と訳せるだろう。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)

ある時期以降のラカンの対象aにほぼ相当する「 le plus-de-jouir」は、一般に「剰余享楽」と訳されているが、これはmisleadingな訳語である。剰余享楽では「 le plus-de-jouir」の両義性が消えてしまう。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

より詳しくは、「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」に記してあるが、「 le plus-de-jouir」とは本来次のような両義性がある用語なのである。




ミレールの表現なら、穴と穴埋めの二つの意味があることになる。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)

わたくしがボロメオの環を図示するとき、ラカン自身の図示[a]とは異なり、[-φ]としているのは、この文脈のなかにある。






要するに真ん中の原去勢(原初の享楽控除)に対して三種類の剰余享楽がある、という想定のもとの右図である。



ーーこれらはあくまで現時点でのわたくしの想定であり、これ自体、あまり信用しないように。

なにはともあれ、享楽とは不可能な享楽という意味であり、斜線が引かれている。それがミレールの言う  (-J)= (-φ)  の意味である。その斜線を引かれた享楽に対して三種類の剰余享楽があるのである。

不可能な享楽と剰余享楽の関係性は(最も基本的には)セミネール19に何度も現れる「四つの言説」の基盤図がそれを示している。




以上