このブログを検索

2019年1月4日金曜日

愛するといふことは息を止めるやうなことだわ

一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気があたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。(三島由紀夫「夜の向日葵」)

いやあスバラシイな、フロイトやラカンを真に読むためには、まともな作家とともに読まなくちゃな。

エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (⋯⋯)

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
⋯⋯この大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、誰もがいかに不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロス Éros のことだが、これは一つになる faire Un という神話だろう。これで人は死にそうになっている(ヘトヘトになっているon crève)。どうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

このことについては書こうとしたことはないのだが、身体を密着することでせいぜいできることといえば、「わたしをぎゅっと抱き締めてserre-moi fort !」と言うことぐらいだ。けれどもあまり強く抱き締めると、相手は最後には死にそうになるだろう(笑)。mais on ne serre pas si fort que l'autre finisse par en crever quand même ! [rires]

だからひとつになる方法なんてまったくない。エロスなんてまったくもっての驚くべきジョークだ la plus formidable blague。

ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死 la mort に属するものの意味に繋がるときだけだ。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


ラカンはフロイトのエロスをばかにしつつ冗談ぽく語っているようにみえるが、今掲げた文が、ラカンの「大他者の享楽」概念を把握するための核心的な発言である。なによりもまず大他者の享楽とエロスが等置されていることのが分かるだろう。

Cette jouissance de l'Autre, dont chacun sait à quel point c'est impossible, et contrairement même au mythe, enfin qu'évoque FREUD, qui est à savoir que l'Éros ça serait de faire Un,

つまり(生きている存在には不可能な)究極の享楽とは究極のエロス=死のことである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

これはエロスの引力に惹かれつつも、究極のエロスという死の恐怖があり斥力が働く。したがって究極のエロスのまわりを循環運動することこそがタナトス(死の欲動)だというふうに理解できる。

同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)






フロイトのエロス(融合)とタナトス(分離)についての記述をもう三つ掲げておこう。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




ラカン「菱形紋 ◇losange」とは、エロス欲動とタナトス欲動の「欲動混淆Triebvermischung」記号さ。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題

略してエロトス記号である。







⋯⋯⋯⋯

エロスについて、古井由吉はこう語っている。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

だれもが知っているように、老齢になれば、死の女神、母なる大地の抱擁に接近する。ゆえにエロス感覚が深くなるのである。

この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)