追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。(Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、2011)
男たちは性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、あこがれつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)
ようするに上のパーリアの言っていることは次の文に収斂する。
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970ーー「セクハラの起源」)
パーリアは次のように言っている愛すべきフェミニストだけれど。
ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! (カミール・パーリア、Crisis In The American Universitiesby Camille Paglia、1992)
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
⋯⋯⋯⋯
以下、いままで断片的に引用してきている文を列挙しておくよ。
ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012)
【フェミニズムは死んだ】
私は全きフェミニストだ。
他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。
フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。(カミール・パーリア 、プレイボーイインタヴュー、1995年)
男を敵として定義するとき、フェミニズムは女たちを自分自身の身体から疎外している。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011)
フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女 Mean Girls のようだ。彼女たちが私のいうことを聞いていたなら、船は正しい方向に舵をとったのだが。…(連中は)私のことをフェミニストではないとまだ言っている⋯⋯フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。(Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture、2013)
【エロティシズム】
エロティシズムは神秘だ。すなわち、性をめぐる情動と想像力のアウラである。エロティシズムは、ポリティカルレフトであれポリティカルライトであれ、社会あるいは道徳のコードによっては「固定」されえない。というのは、自然のファシズムはどんな社会のファシズムよりも偉大だから。性関係には悪魔的な不安定性があり、われわれはそれを受け入れなければならない。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”、2018)
女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)
(女性性賛歌) |
男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアCamille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
ーー上の文にもある時期以降のラカンがいるな、冒頭に引用したパーリアが批判しているのは古典的ラカンだ。
享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。
そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…
不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)
【家父長制】
文明が女の手に残されたままだったなら、われわれはまだ掘っ立て小屋に住んでいただろう。(カーミル・パーリア camille paglia『性のペルソナ Sexual Persona』1990年)
・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。
・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011年)
【男という犠牲者】
男たちは身体的かつ感情的に自らを犠牲にして、女と子供を養い住居を当てがい守ってきた。男たちの痛みあるいは成果は、フェミニストのレトリックには全く登録されていない。連中のレトリックは、男を圧制的で無慈悲な搾取者として描くだけだ。(Camille Paglia, Vamps and Tramps, 1994年)
かつてのフェミニストたちのアイコン、ノーベル文学賞作家のドリス・レッシング Doris Lessingと『母性という神話(L'Amour en Plus)』で名高いエリザベート・バダンテール Elisabeth Badinter の言葉も付け加えておこう。
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちに貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 、Lay off men, Lessing tells feminists、Guardian, 2001)
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、LESS THAN NOTHING, 2012より孫引き)