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2019年1月28日月曜日

セクハラの起源

女は原支配者であり、原誘惑者である。

原支配者、すなわち、

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

原誘惑者、すなわち、

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


まず人はこれを認めなくてはならない。そして、誰もが知っているように支配者は嫌われる。ミソジニーの原起源はここにある。

誘惑者はどうか? 誘惑者とは侵入者である。侵入されたら侵入し返すのが人間の特性である。フロイトは、人が受動的立場に立たされる経験をしたら、人は同じ経験を能動的にやりかえす、とくりかえし強調しているが、これは乳幼児のときからそうである。母の乳房をサディスティックに噛むのはこの機制である。被侵入ー侵入の機制もこれと同様である。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)
過去の性的虐待の犠牲者は、現在の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil、Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe 、2010、PDF)

したがって、仏典にある「すべての女、これ母なり」、あるいは「すべての女には母の影が落ちている」(ポール・バーハウ、1998)を人が認めるなら、後の生で、女が性的侵入の対象、つまりセクハラ対象になるのは必然である。

母による身体への侵入は、幼児にとってトラウマ的である。ここでのトラウマの意味は、《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》(中井久夫「記憶について」)である。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

そして、このトラウマ的記憶あるいはその侵入刻印は、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》(中井久夫「発達的記憶論」)として、エス、あるいは原無意識のなかに居残る。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この原初の出来事に起因するセクハラ指向を避けるためにはどうすべきか。人は幼児期のエロス的固着から逃れるべくあるゆる手段を講じなければならない。

幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


すなわち人は「成熟」しなければならない。あるいはファルス人格にならなければならない。ここでのファルス人格とは、父の法としての言語によって統制された人格という意味である。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

だが無意識の原欲望に対して、ファルスの意味作用は十全には機能しない。すなわち成熟はない。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)

人は、このフロイト・ラカンに準拠したミレールの見解を受け入れがたいというかもしれない。だが、原誘惑者のセクハラ行為は、「幼少の砌の傷への固着」(参照)として機能するトラウマ的出来事である。

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


なにはともあれ、トラウマ的出来事に起因する反復強迫的症状の治療がとても困難なのは、誰もが知らねばならぬ事実である。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


ここで確認のため念押ししておくが、事故的トラウマと構造的トラウマによる反復強迫は、メカニズムとしては相同的である(参照)。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なもの(=異物)として、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)


以上、セクハラがお嫌いな女性のみなさん、創造的な人物にはとくにお気ををつけを! セクハラをさけるためには、それなりの安全パイとして、ガチガチのファルス的鎧を着たーーフロイト用語なら「刺激保護壁 Reizschutzes」で覆われたーー「善人のみ」にお近づきになることをおすすめします。

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)

「善人」がお嫌いな女性の方への処方箋は、蚊居肢散人には遺憾ならが思いつきません。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

…………

※付記

以下、ここでの話題をめぐって重要だと思われる(ラカン派による)基礎文献をいくつか掲げておきます。


【身体の出来事】
症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事としての享楽は欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


【母による身体の上への刻印】

《大他者は身体である!L'Autre, …c'est le corps ! 》(ラカン、S14、10 Mai 1967)
《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)

享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係している。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

享楽の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・

享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)