愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第二版1970年)
このドゥルーズがプルーストから導きだした命題の主要な起源のひとつは、次の文にある。
あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié(プルースト『見出された時』)
ここで試みに、次のように言い換えてみよう、「好きな理由は、人が好きな対象のなかにありうるが、愛する理由は自分のなかしかない」と。
これは、ロラン・バルトの次の文に依拠している。
ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
プンクトゥム(punctum)――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな染み petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
プンクトゥムは、ラカンの対象aのことである。バルトは部分対象としているが、これは対象aのことである。
たいていの場合、プンクトゥムは「細部」である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(『明るい部屋』)
《私自身を引き渡すことになる》に注目しよう。プンクトゥムは、「対象の鞘ではなく、私自身の内部にのびているもの」(プルースト)なのである。
プンクトゥムは、象徴界の裂け目に現れる「現実界の効果」でもある。
『明るい部屋』のプンクトゥム punctum は、ストゥディウムに染みを作る fait tache dans le studium ものである。私は断言する。これはラカンのセミネール11にダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは「現実界の効果 l'Effet de réel」と呼ばれるものである。(ジャック=アラン・ミレール、セミネール、2011)
このミレールの主張は、ラカンをいくらか読んだことのあるものならただちに納得するはずである。《プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな染み petite tache、小さな裂け目 petite coupure》とあるように、なによりもまず染み・穴・裂目・傷の語彙によって。
・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.
・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche (対象a)としてある。(ラカン、S11, 04 Mars 1964)
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴=トラウマ troumatisme (ラカン、S21、19 Février 1974)
バルトには別に、《システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes 》 (『テクストの快楽』1973年)という表現がある。これまたラカンの「絵のなかの染み tache dans le tableau」=対象aである。
絵のなかの染みとは、表象のなかの染み、イマージュのなかの染みということでもある。
一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。
しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかな染み tache がある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)
純白の頭巾だけでは、文化的好みとしてのストゥディウムの審級にあるだけだ。バルトが魅惑されるのは、上品なハジがまとう白い衣装のうえの汚れ=染みである。これこそ「欲望の対象」ではなく「欲望の原因」としての対象aである(参照)。
「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。人はこの特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。
たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。
でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、私訳)
ラカンはこう言っている。
私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のあるあなた以上の何か、〈対象a〉を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)
自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi (プルースト『ソドムとゴモラ Sodome et Gomorrhe』 「心の間歇 Les intermittences du coeur」)
ーーラカンの《あなたの中のあるあなた以上の何か quelque chose en toi plus que toi》とプルーストの《自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi》。
これらの表現を、対象のなかのシミ=眼差しを指すものとして言い直すなら、「対象のなかにあって対象以上のもの」である。すなわち対象のなかに私が書き込まれている。
この表現のもとで、上に掲げたプルースト文をもう一度読んでみればはっきりするだろう。
あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびているtoute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)
バルトだけではなくプルーストも既に、ラカンの対象aと相同的なものを語っているのである(そもそも対象aは、ラカンが1960年後半以降強調しだしたように、マルクスの「剰余価値」とも等置できる、すくなくともある相において)。
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密 extimité。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S7、03 Février 1960ーーモノと対象a)
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いま『見出された時』から引用した文の前後もふくめて抜きだそう。
人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。
それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびているtoute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)
《われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて》とあるように、愛する理由は、自然であれ、社会であれ、恋愛であれ、芸術であれ、私のなかにある。
たとえば海を愛する。だが海を愛する理由は、海のなかにはない。
たとえばある女を愛する。だがその女を愛する理由は、女のなかにはない。
たとえばプルーストを愛する。だがプルーストを愛する理由は、プルーストのなかにはない。
これはプルーストが「めがね」、「光学器械 」という表現で自ら言っていることでもある。
私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。
本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械instrument d'optiqueにすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
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※付記
《バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない》と言い放つ日本屈指の批評家蓮實重彦は次のように言っているが、これは明らかな誤謬である。
例の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という二元論が写真をめぐる言説にどれほど有効な視点をもたらすかどうかも、主要な話題とはなりがたい。(蓮實重彦『表象の奈落』)
染みは、構造的に喪われている表象の代理である。表象の全領野は染みに依拠している。染みという代用品は、構造的に喪われているにもかかわらず、この代役は他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印(対象aとしての刻印)のためである。
⋯⋯ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント的用語における、現象の領域の彼岸ではない。…(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf)
ムラデン・ドラーの言っている「表象の非全体」は、ラカンがセミネール23で示した象徴界Sのなかの穴 Trou のことを言っている。これが上に引用したミレール=バルトの「現実界の効果 l'Effet de réel」である(人が感知しうるもう一つの真の現実界は、「真の穴 Vrai trou」にあるが、ここではそれに触れない[参照])。
この観点で蓮實の「表象の奈落」をめぐる文を読んでみよう。きわめて表象の非全体(穴)に近似している。
「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。
決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』2006)
なにはともあれ、蓮實でさえバルトのプンクトゥムについてこんな具合であり、現在におても、表象文化論系の論文をいくつか覗いてみた限りだが、プンクトゥムについて頓珍漢なことしか言っていない。彼らはプンクトゥムとラカンの対象aとのつながりをまったく把握していないのでやむえないこととはいえ。--《まぁ、世界とはその程度のものです》(蓮實重彦)