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2019年5月10日金曜日

母というものは超自我の別の名

サントームは超自我の別の名」で、

女というものは超自我の別の名である。
LȺ femme est un autre nom de Surmoi


と示した。

ラカンはそれを次のような形で暗示している。

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de LȺ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)
「大他者の大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

そしてこの神とは超自我である。

一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)


だがより厳密に言えば、

母というものは超自我の別の名である。
LȺ Mère est un autre nom de Dieu.


である。


太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存dépendanceを担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


人はみな父の諸名に先立つ母の名がある。

ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO, Leonardo S. Rodriguez)


これはフロイト自身にもある。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)


肝腎なのは、自我理想(父の名)と超自我の区別である。

我々は象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)




ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 ⋯ comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)

したがって、ドゥルーズのいう《制度的超自我 le surmoi institutionnel》(『マゾッホとサド』第11章、1967年)、中井久夫のいう《社会的規範を代表する「超自我」》「母子の時間 父子の時間」2003年)、柄谷行人のいう《私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです》(「憲法9条の今日的意義」2016年)》の超自我とは、少なくもラカン派によるフロイト読解観点からは、すべて誤謬である。彼らが言っている超自我は、自我理想であり、ラカンの父の名である。

もっとも、三人ともなんらかの形でエディプス的父(自我理想)の底にある何ものかを示唆はしている。たとえば柄谷行人は憲法九条を支える母性的な天皇制、中井久夫には「父なるレリギオ(つつしみ)」に対する「母なるオルギア(距離のない狂宴)」。ドゥルーズにもわずかながらだが示唆がある(参照)。だが彼はアンチオイディプスを強調しすぎた。

超自我とはラカンにとって本来次のようなものである。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

フロイト自身、死の枕元にあったとされる草稿で次のように書いている。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

「自己破壊」とは、死の欲動のことである。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


したがってフロイト大義派 Ecole de la Cause freudienne の三人はこういうのである。

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)
フロイトは欲動の昇華 sublimation de la pulsion について語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化 surmoïsation de la pulsion を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(エリック・ロラン、ジャック・アラン・ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)