フロイトがはじめて超自我概念を提出した『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。このため超自我=自我理想が通念となってしまっている。フロイト学者であっても超自我と自我理想の区別がついている人は現在になっても稀である。
だがよく読めば、超自我と自我理想の区別を、フロイトは『自我とエス』でしている。それは次の文である。
だがよく読めば、超自我と自我理想の区別を、フロイトは『自我とエス』でしている。それは次の文である。
最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的 allgemeine und nachhaltigeであるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における父との同一化である(註)Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit。(フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)
そして注にはこうある。
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(同『自我とエス』)
ーーペニスをもった母とは「ファリックマザー」と呼ばれることは古代からよく知られている。いわゆる全能の母である、《ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique》(ラカン、S4, 06 Février 1957)
結局、超自我とは、さきほどの『自我とエス』の文をどう読むかに関わるのである。
もっともこの「個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における」両親との同一化の真の意味をしっかり把握するには、『自我とエス』だけではなく後年の記述で補う必要はある。
フロイトは1930年に次のように言っている。
“indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt”とあるが、前後数箇所に“Introjektion ins Über-Ich”とあり、簡潔に言えば「超自我への取り入れ Introjektion」である。
1938年にはさらにこうもある。
母と父のどちらが最初に個人の行動を監督するのか。
そもそも「個人の原始時代 persönlichen Vorzeit 」には父などというものはひどく影の薄い存在であり、そんなものを「取り入れ Introjektion」することがあるんだろうか?
ーー原幼児期には、けっして父など「取り入れ」ません。これはひどく当たり前のことです。
ようするに取り入れすることがあれば、母に決まっているのである。それは歴史的太古の時代と同様である。
こうして若きラカン、『モーセ』が書かれた同時期のラカンはこう言うことになる。
1938年のラカン、37歳のラカンが、フロイト1937年の文を読んで「太古」という語を使ったのかどうかは知るところではない。
そしてフロイトの死の枕元にあったとされる草稿にはこうある。
「自己破壊」とは、死の欲動のことである。
フロイトが示しているのは三層構造である。
死の欲動の箇所をエスと置き換えてもよい。
超自我とは死の欲動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。
だが奔馬は十全には飼い馴らせない。
このように超自我はエスのエージェントという相があるのである。エスのエージェントとは、死の欲動のエージェントということである。
したがって現在ラカン派ではこう言うことになる。
「タマネギと自我」で示したように、超自我とはリビドー固着の別の名でもある。
リビドー固着には原始時代のドラゴンという残滓が常にあるのである。同時期の最晩年のフロイトは次のように繰り返し強調している。
したがって超自我は、エスの声の猥褻な命令をするのである。
とくに《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)ーー、この父の蒸発後のわれわれの時代、われわれの《禁止の禁止[l'interdit d'interdire]》の時代、超寛容社会においては、ことさら母なる超自我の「内なる命令の声」があなたのなかに響き渡っている筈である。よほど不感症でなければ。よほどファルスの覆いが厚くなければ。
重要なのはエディプスの斜陽の時代だからこそ、この超自我が裸のまま露顕することである。
エディプスの背後には母がいる。母なる超自我がある。
これはなにも母と父自体の問題ではない。一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な未熟児として生れ、かつまた本能の壊れた動物、身体から湧き起こる欲動の内的カオスを自らでは飼い馴らせないヒト族における発達段階的必然だということである。「原初に母ありき」である。古代ローマの至言、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》である。
幼時の身体の欲動の留め金を置くのは母あるいは母親役の人しかない。
気まぐれの母とは何よりもまず、母胎内におけるエロス的母子融合の後の出産後、言ったり来たりして小児に不安を与える母ということである。
このため人はみな次の状況に陥る。
ここにある《喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts》がラカンの対象aの起源である。
この1958年には「母への依存」が、「母なる超自我」を説明する文脈で言われている。そして1970年には「母なる女の支配」と「幼児の依存を担う母」とある。
これが原超自我である。この母なる支配者が。
くり返せば、超自我とは母なる超自我である。もし父なる超自我という言葉がお好きで使いたければ使ったらよろしい。だが父なる超自我なんてものは単なる上覆いに過ぎない。
幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)
“indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt”とあるが、前後数箇所に“Introjektion ins Über-Ich”とあり、簡潔に言えば「超自我への取り入れ Introjektion」である。
1938年にはさらにこうもある。
超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』1938年)
母と父のどちらが最初に個人の行動を監督するのか。
そもそも「個人の原始時代 persönlichen Vorzeit 」には父などというものはひどく影の薄い存在であり、そんなものを「取り入れ Introjektion」することがあるんだろうか?
ーー原幼児期には、けっして父など「取り入れ」ません。これはひどく当たり前のことです。
ようするに取り入れすることがあれば、母に決まっているのである。それは歴史的太古の時代と同様である。
「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
こうして若きラカン、『モーセ』が書かれた同時期のラカンはこう言うことになる。
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
1938年のラカン、37歳のラカンが、フロイト1937年の文を読んで「太古」という語を使ったのかどうかは知るところではない。
私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
そしてフロイトの死の枕元にあったとされる草稿にはこうある。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
「自己破壊」とは、死の欲動のことである。
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
フロイトが示しているのは三層構造である。
死の欲動の箇所をエスと置き換えてもよい。
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。
… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
超自我とは死の欲動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
超自我は我々の欲動を支配する手助けをする Super-Ego – helps us to master our drives (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)
だが奔馬は十全には飼い馴らせない。
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
このように超自我はエスのエージェントという相があるのである。エスのエージェントとは、死の欲動のエージェントということである。
したがって現在ラカン派ではこう言うことになる。
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)
「タマネギと自我」で示したように、超自我とはリビドー固着の別の名でもある。
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
リビドー固着には原始時代のドラゴンという残滓が常にあるのである。同時期の最晩年のフロイトは次のように繰り返し強調している。
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
したがって超自我は、エスの声の猥褻な命令をするのである。
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
とくに《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)ーー、この父の蒸発後のわれわれの時代、われわれの《禁止の禁止[l'interdit d'interdire]》の時代、超寛容社会においては、ことさら母なる超自我の「内なる命令の声」があなたのなかに響き渡っている筈である。よほど不感症でなければ。よほどファルスの覆いが厚くなければ。
重要なのはエディプスの斜陽の時代だからこそ、この超自我が裸のまま露顕することである。
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
(母の名 Le Nom de Mère) |
エディプスの背後には母がいる。母なる超自我がある。
これはなにも母と父自体の問題ではない。一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な未熟児として生れ、かつまた本能の壊れた動物、身体から湧き起こる欲動の内的カオスを自らでは飼い馴らせないヒト族における発達段階的必然だということである。「原初に母ありき」である。古代ローマの至言、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》である。
幼時の身体の欲動の留め金を置くのは母あるいは母親役の人しかない。
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
気まぐれの母とは何よりもまず、母胎内におけるエロス的母子融合の後の出産後、言ったり来たりして小児に不安を与える母ということである。
母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)
このため人はみな次の状況に陥る。
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungen をもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
ここにある《喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts》がラカンの対象aの起源である。
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
⋯⋯⋯⋯
さてフロイト文をもうひとつ掲げよう。母なる原誘惑者である。
この原誘惑者が身体の上への刻印をするのである。原誘惑者が母なる超自我である。これが「原大他者の取り入れ Introjektion」としての超自我である。欲動固着(サントーム)かつ母なる超自我のマテーム S(Ⱥ) とはこの刻印である。フロイトは同じ論文で《母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter 》が居残るとしているが、これこそ上でみたリビドー固着の残存現象であり、S(Ⱥ) である。このS(Ⱥ) とは必ず《最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins》(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)。
前期ラカンはこう言っている。
さてフロイト文をもうひとつ掲げよう。母なる原誘惑者である。
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
この原誘惑者が身体の上への刻印をするのである。原誘惑者が母なる超自我である。これが「原大他者の取り入れ Introjektion」としての超自我である。欲動固着(サントーム)かつ母なる超自我のマテーム S(Ⱥ) とはこの刻印である。フロイトは同じ論文で《母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter 》が居残るとしているが、これこそ上でみたリビドー固着の残存現象であり、S(Ⱥ) である。このS(Ⱥ) とは必ず《最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins》(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)。
前期ラカンはこう言っている。
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
この1958年には「母への依存」が、「母なる超自我」を説明する文脈で言われている。そして1970年には「母なる女の支配」と「幼児の依存を担う母」とある。
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
これが原超自我である。この母なる支配者が。
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
くり返せば、超自我とは母なる超自我である。もし父なる超自我という言葉がお好きで使いたければ使ったらよろしい。だが父なる超自我なんてものは単なる上覆いに過ぎない。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求 exigeantし、さらにいっそう圧制的 opprimant、さらにいっそう破壊的 ravageant、さらにいっそう執着的 insistant な母なる超自我が。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
エディプスの父の背後には、母なる女がいる。
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。
そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。
フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.
神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
家父長制と男根中心主義は、原初の全能の母権システムの青白い反影にすぎない。 (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、孤独の時代における愛 Love in a Time of Loneliness、1998)
超自我とは、ドゥルーズのいう《制度的超自我 le surmoi institutionnel》(『マゾッホとサド』第11章、1967年)でも、中井久夫のいう《社会的規範を代表する「超自我」》「母子の時間 父子の時間」2003年)でも、柄谷行人のいう《私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです》(「憲法9条の今日的意義」2016年)》の超自我でもないのである。彼らが言っている超自我は、自我理想であり、ラカンの父の名である。
わたくしの知りうるかぎりでーーほとんど知らないがネット上に落ちている論文を掠め読むかぎりでは(京大系がかなりたくさん落ちており査読者のボケぶりが憶測できる)ーー、日本フロイト派研究者における「超自我」把握も全滅である。ラカン派だって九割方あやしい。
「神の死」を宣言したニーチェはひょっとしてよく体感していたのではないだろうか。父なる神が死んだ後、おそろしき母なる女主人の声に襲われる宿命を。
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。
……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: 」--
このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
人は、神の死の後こそ、母なる超自我の「内なる声」(内なる命令 intime impératif、E684)の囚われの身となる。
無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis》
これは明らかにナイーヴである。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる si Dieu n'existe pas, alors rien n'est plus permis du tout.》ことを。
神経症者は毎日、われわれにこれを実証しているLes névrosés nous le démontrent tous les jours.。(ラカン、S2、16 Février 1955)
そして、「母というものは超自我の別の名」で示したように、
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
最後にフロイト版ボロメオの環を掲げておこう(厳密にはラカンのボロメオの環と異なるの注意[参照])。
まず次のように図示しうる。
何かが欠けている。フロイト自身、この1933年の段階の講義でも、これでは十分でないから、皆さんぜひ考えてください、と言っている。
わたくしの考えでは次のように置くべきである。
ラカンマテームを使えば次の通り。
ーーみなさん、これでは十分ではないですから、よくお考えください!
なにはともあれ、もしあなたが自我=タマネギを受け入れるなら(自我=無)、超自我、理想自我、自我理想、そして喪われた対象で、あなたは出来上がっているのである(参照:タマネギと自我)。もちろんエス(身体の欲動)、他者(主に言語)も含めて。
あなたはどんな人生を送っているのか。この構造のなかにあるどれかの比重の多寡があなたを衝き動かしているはずである。それが上のモデルである。
たとえば理想自我i(a)とは、前期ラカン語彙では想像的ファルスでもある。
彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象(想像的ファルス)であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。…もし愛が介入するなら、いっそうそうである。…しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、見せかけの対象a(欲望の対象)の化身ではありえないから。彼女が「a」のまま reste là comme a・対象のままcomme objet なら、ある種のマゾヒズム的ポジションposition masochiste に縛りつけられたままだと言うのは、誇張ではない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)
ーー《他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. 》(ラカン、S10, 16 janvier 1963)
ジャック=アラン・ミレールが指摘するように、想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係とは、理想自我 Idealichと自我理想 Ich-Ideal とのあいだの関係である。⋯⋯⋯⋯
簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの(あるいは他人からこう見られたいと思うイメージへの)同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)