前年のローマ講演では、エリオットの「うつろな人間 the hollow men」を引用して自我を語っている。
We are the hollow men
We are the stuffed men
Leaning together
Headpiece filled with straw. Alas!
俺たちのなかみはからっぽ
俺たちのなかみはつめもの
俺たちはよりそうが
頭のなかは藁のくず、ああ!
人はひょっとして考えているのかもしれない。自分のアイデンティティとは、自身のなかに深く根ざした不変のエッセンス、生得の、遺伝的等々の何かだと。私は最初から私自身であり、その後いささかの変化はあるにもかかわらず、私は、生涯、私自身のままだと。
これがあきらかに誤謬なのは、生後まもなくの養子についてほんのわずか考えてみるだけでよい。たとえばあなたがアメリカ人の養子になったとき、あなたがドイツ人の養子になったときを。あなたは必ず別人になっている。
アイデンティティとは他者からの贈り物である。
ベルギーのルーヴァン大学を中心とする新トマス主義のカトリック哲学は、「自己」を「他者からの贈り物」とするそうだが、この考えは、私にはどこか真実さが感じられる。(中井久夫「ボランティアとは何か」初出1998年『時のしずく』所収)
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フロイト・ラカン派では三つの同一化の種類を考えている。
いままで主に語られて来たのは想像的同一化と象徴的同一化の二種類である。だが、この二つの根には現実界的同一化がある。
想像界的同一化は、理想自我、象徴的同一化は自我理想である。現実界的同一化は超自我にかかわる。
それぞれのマテームは、理想自我 i(a)、自我理想は I(A)、超自我はS(Ⱥ)である。S(Ⱥ)が現実界的シニフィアンであるのは「境界表象の永遠回帰」で示した。
ラカンのボロメオの環を使って(厳密にはラカンのボロメオ思考とは等価ではないが、モデルとして使用すれば)、フロイト版としてこうなる。
巷間では、ほとんどの人において自我理想と超自我の区別がついていない。ドゥルーズはこの区別なしで1960年代後半の仕事をし、そのまま1970年代においてフロイト批判をしてしまっている。「ドゥルーズにおける「自我理想と超自我」」「タナトスは超自我の別の名」ではほぼマゾッホ論に絞ってその落ち度を指摘したが、『差異と反復』、『意味の論理学』においても同様である。日本では、たとえば二人の傑出した「思想家」中井久夫や柄谷行人でさえついていない。
フロイト自身においても、はじめて超自我概念を提出した『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっており、このため浅はかな読解による誤解を生んでしまい、超自我=自我理想と解釈されてきた。だがすこしでもフロイトを読み込めばそんなことはありえないのである(参照:「理想自我と自我理想と超自我」文献)。
ラカン派はとっくの昔からこれに気付いている。
我々は象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
ミレールは I(A)もS(Ⱥ)も「象徴的同一化」と言っているが、 I(A) に先立つ S(Ⱥ)とはエス(欲動の現実界)の原象徴化という意味である。彼はこれを「欲動の超自我化」と表現している。
フロイトは欲動の昇華 sublimation de la pulsion について語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化 surmoïsation de la pulsion を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(エリック・ロラン、ジャック・アラン・ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)
かつまた最近では「欲動のクッションの綴じ目」とも呼んでいる。
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
だがこの象徴化には必ず失敗がある。ポール・バーハウ2004の図のマテームをここでの文脈に変更してしめせばこうである。
この重なり箇所に位置づけられるS(Ⱥ)はリビドー固着にも相当する(これも前回記した通りである)。このリビドー固着には必ず残滓がある。これを最晩年のフロイトは《残存現象 Resterscheinungen》と呼んだ。ラカンの対象aのひとつである。この意味で、S(Ⱥ)とは現実界的シニフィアンである。
ここで示しているマテームを使って言えば(これだけではないが)、どの段階でも常に対象a(喪われた対象)は発生する。
ーーこのように下部から時系列的に図示するのは本来このましくないのだが(想像界・象徴界・現実界は発達段階の初期から常に錯綜している)、対象aのあり方を示す便宜上、上のように図示した。Ⱥとは「享楽の喪失」、S(Ⱥ)とは「享楽の喪失の名」でもある。
喪失とは去勢の別の名である。ラカンにとって人間は出生時にすでに享楽の去勢がある。
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
たとえば、ミレールは簡潔に享楽の喪失J/と言語A、あるいはJ/と父の名といいう形で対象aのあり方を示している。
喪失の穴埋めをするのが言語であり父の名(父の諸名)である(参照:穴と穴埋め)。
そもそも、《父の名とは言語である。そしてさらに、超自我とは言語である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.》(ジャック=アラン・ミレール、 séminaire 96/97)
さて先ほど掲げたボロメオの環のエス部分をカットして日本語で示せば次のようになる。
古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定された。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられている。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. 2008)
なにはともあれ、フロイト・ラカン派観点からは、他人を取り調べるとき、自分を取り調べるとき、超自我、理想自我、自我理想の構造的関わりをまず思い浮かべるのがひとつの重要な手蔓なのである(もちろんこれがすべてではない)。
他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)
ボロメオの中心にある「喪失」については、ひとつの解釈のみの相を掲げておこう。つまりこれがすべてではないという意味である(参照:去勢文献)。
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
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以下、理想自我、自我理想、超自我の注釈をかかげる。
■「想像的同一化/象徴的同一化」=「理想自我/自我理想」
ジャック=アラン・ミレールが指摘するように、想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係とは、理想自我 Idealichと自我理想 Ich-Ideal とのあいだの関係である。⋯⋯⋯⋯
簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
■理想自我に新しい形式を与える自我理想
一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投射 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)
注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投射を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「新しい形式」nouvelle forme de son idéal du moiを提供すると(セミネール1)。 ((ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)
超自我もふくめた注釈は次の通り。わたくしは上の注釈もふくめ、これが「全面的に正しい」とは言わない。今はこういった注釈がなされてきたということを示すだけである。
■理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichの厳密な区分
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。
〈理想自我〉は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。
〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。(ジジェク『ラカンはこう読め』2005年)
■超自我と自我理想のコインの裏表
ラカンの見解では、超自我 surmoi は自我理想 idéal du moi とはっきりと差別化される必要があるとはいえ、超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。両方とも、主体が徴づけられた欠如への関わりとして機能する。その欠如とは、自我と理想自我 moi idéal とのあいだの相互作用にすべて関係がある。
自我理想はこの欠如との関係において「橋を架ける」機能を持つとラカンは言明している。…
超自我は、逆転した効果・分割効果を持つ。ラカン(E.684)は、超自我を次のように特徴づけている。すなわち、「如何に人があるか」(自我)と「如何に人がありうるか」(理想自我)とのあいだの差異を指摘する「内なる声」(内なる命令 intime impératif、E684)として。
事実上、超自我の指摘は、「如何に人がありうるか」の考えを「如何に人はあるべきか」の命令へと変換する。そのようにして、主体の欠陥を強調することになる。いくらか《得意にさせる exaltant》形で機能する自我理想とは対照的に、超自我は《強制する contraignant》効果を持つ(セミネール1)。超自我から湧き起こる無慈悲な非難は、自我理想によって励まされた完全性の期待を与える錯覚を粉々にする。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe, 2005年)
ラカンの父の名とは基本的には、超自我ではなく自我理想である。
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
もしどうしても自我理想ではなく、超自我という用語を使いたければ 、エディプス的超自我と前エディプス的超自我と呼んでもよい。
(母の名 Le Nom de Mère) |
基本的には左項は眼差し、右項は声である。すなわち「父なる眼差し」と「母なる声」。そして《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)ーー、この父の蒸発後のわれわれの時代、母なる声は何をいうのか? この《禁止の禁止[l'interdit d'interdire]》の時代の声を、実はみな知っているはずである。
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
ミレールは少し前掲げた文で、《父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Père》、その底に隠れた超自我は、《享楽への意志 la volonté de jouissance》と言っているが、これは死の欲動の声という意味である。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
そして、
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)
もっとも死の欲動(タナトス)という語は十分に注意して使わねばならないが。たとえば「エロス欲動という死の欲動」と唐突に言い放っても、あまりにも巷間の先入主からかけ離れているので、おそらく人は納得しがたいだろう。
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)