たとえ知識があろうとも、それだけでは誰にも行動を促すことはできない。…(なぜなら)私たちは自分の知識が導く当然の帰結を、自分で思い描けないから。(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』)
近未来の財政破綻、社会保障制度の崩壊は、ある程度の教養がある人なら、別に経済学者でなくても、実は皆が知っている。だが否認されているだけである。
倒錯において自我は、現実の重要な部分 bedeutsames Stück der Realität を否認するverleugnet。(フロイト『フェティシズム』1927年、摘要)
この倒錯の機制であるVerleugnung(否認)とは、事態の内容は能動的形式で認められているのだが、その承認は、Isolierung(分離・隔離)という条件の下であり、つまり日常生活への影響(象徴的影響)は宙吊りになったままで、主体の象徴秩序のなかへは統合されていないということである。
これは、ラカンの弟子(友人)オクターヴ・マノーニ Octave Mannoni の名高い「よく知っているが、それでも…( je sais bien, mais quand-même)」という論理のもとにある。「フェティシズム」の文脈でダイレクトに言えば、「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも…[母さんにはペニスがあると信じている]」となる。
表象の運命と情動 Affekts の運命をより明確に切り離し、「抑圧 Verdrängung」は情動のほうにとっておくつもりなら、表象の運命には、「否認 Verleugnung」が正しいドイツ語の表現になるだろう。…
われわれの言っている状態は、知覚 Wahrnehmung は残存しながら、その否認 Verleugnung を固持しようとする、きわめて精力的な行動が企てられているというものである。小児が女性を観察した後も、女性のファルス Phallus des Weibesという信念を変えることなく保持している、というのは正しくない。小児はその信念を守りつづけているのだが、断念(止揚 aufgegeben)もしているのである。
望まれざる知覚 unerwünschten Wahrnehmung の重みと反対願望 Gegenwunsches の強さとの葛藤のなかで、小児は、無意識的思考法則ーー「一次過程 Primärvorgänge」--の支配のもとでのみ可能な一つの妥協にいたりつく。とにかく女性は、心的なもののなかでは、依然としてペニス Penis を所有しているのだが、このペニスはもはや以前のそれではない。他のものがこれにとってかわっており、いわばその代理に任ぜられ、今はかつてのペニスに向かっていた関心の後継者となっているのである。
この関心はだがなおも異常に高められる。これは、去勢の恐怖 Abscheu vor der Kastration がこの代理物を作りだしたとき、一つの遺物 Denkmal を置いたからである。かつて行われた抑圧(放逐 Verdrängung)の消しがたい烙印 Stigma として、実際の女性器 weibliche Genitale に対する嫌悪(疎外 Entfremdung) もまた残る。これは、どのフェティシストにも、かならず見られるものである。(フロイト『フェティシズムFetischismus 』1927年)
「踏み絵のすすめ」で記した日本国家債務の文脈で言うなら、財政危機はきわめて深刻であり、日本人は自分たちの生存そのものがかかっているのだということを、「よく知っているが、それでも je sais bien, mais quand-même……」、心からそれを信じているわけではない。それは日本の象徴秩序に組み込む心構えはできていない。だから彼らは、危機が日常生活に影響を及ぼさないかのように振舞い続けている、となる。
現在の日本においては集団否認症の蔓延がある。もっとも、もともと日本とは見せかけの国だと言ってもよい。
ロラン・バルトは自分の日本をめぐるエッセーを 『表徴の帝国』 L'Empire des signes と題しているが、 それは 『見せかけの帝国』 l'empire des semblantsを意味する。(ラカン、リチュラテール.Lituraterre 1971)
日本とは実にこよなき文化的な国なのである。
いくつかの公文書や回想録によると、1970年代半ば、チトーの側近たちはユーゴスラヴィアの経済が壊滅的であることを知っていた。しかし、チトーに死期が迫っていたため、側近たちはかたらって危険の勃発をチトーの死後まで先延ばしにすることに決めた。その結果、チトーの晩年には外国からの借款が急速に膨れ上がり、ユーゴスラヴィアは、ヒッチコックの『サイコ』に出てくる裕福な銀行家の言葉を借りれば、金の力で不幸を遠ざけていた。1980年にチトーが死ぬと、ついに破滅的な経済危機が勃発し、生活水準は40パーセントも下落し、民族間の緊張が高まり、そして民族間紛争がとうとう国を滅ぼした。適切に危機に対処すべきタイミングを逃したせいだ。ユーゴスラヴィアにとって命取りとなったのは、指導者に何も知らせず、幸せなまま死なせようという側近たちの決断だったといってもいい。
これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。……(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化とは知らない/気づいていないふりをすることである)。
この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。(ジジェク『ラカンはこう読め』「日本語版への序文」)
ここでのジジェクの日本文化をめぐる記述の相は、主にラカンの次の発言を基盤としている、と私は捉えている。
主体が自らの基本的同一化として、 「唯一の徴 le trait unaire」(≒自我理想)にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表行為が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。
日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法のもとに置かれていることから、強化している。 (ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, Autres Écrits所収)
もっともこれらは昔から言われ続けていることのヴァリエーションにすぎない。たとえば時枝誠記は、日本語は本質的に「敬語的」だと言った。
さらに言えば、理念なき「共感の共同体」。
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)
地震国であるゆえの宿命だと言ってもよいかもしれない(必ず訪れる大地震を否認しないと日々の生活はやっていけない)。
日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号 )
中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出『精神科医がものを書くとき』所収)
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)
一般論として言えば、人の言説(あるいは「社会的つながり」)は、真の危機に対する防衛としてあり、この危機から目を逸らすためにある(フロイトはこの機制を「投射 Projektion」と呼んだ)。
危機と言われる。この言葉ほど風化しやすいものはない。人は危機感を日常に長くは保っていられないものらしい。それでは生きられない。しかし危機そのものは日常につねにつきまとう。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)