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2019年9月12日木曜日

同一化による庶民たちの精神衛生向上

Wikiの「ファシズム」の項にはこうある。

「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)で、更に「ファッショ」の語源はラテン語の「ファスケス」(fasces、束桿)である。ファスケスは斧の回りにロッド(短杖)を束ねたもので、古代ローマの執政官の権威の象徴とされた。

この定義によれば、ファシズムとは結束を意味するのであり、それ自体は何もわるいことではない。

この結びつき=ファシズムによって人間の最も美しい相も生まれうるのである。

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

………

ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』についてこう言った。

『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)

ようするにフロイトの『集団心理学と自我の分析』とは、人々がいかに「感情的結つき Gefühlsbindungen」=「感情的結束」を引き起こすかを分析したものであり、ファシズム論でもある。

原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)




理念 führende Idee(自我理想)がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)


同一化(同一視)概念自体は、フロイト起源ではもちろんない。たとえばルソーはすでにこう書いている。

私たちはどのようにして憐れみ pitié に心動かされるのであろうか。…苦しんでいる存在に同一化する identifiant avec lʼêtre souffriront ことによってである。( ルソー『言語起源論』)

苦しんでいる存在に同一化することによって憐れみを抱く。憐れみを抱くから同一化するのではない。これは当時においてとてもすぐれた洞察である。

ルソーの同一化はこれだけではない。次のようないささかシニカルな分析もしている。

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。(ルソー『エミール』)

「第二の格率」がとくに示唆あふれる、ーー《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ》。つまりは自分がまぬがれると思う不幸には、人は不感症だといっている。これが絶対的に正しいとは言わないでおくが、多くの場合この傾向があるのは確かである。たとえばアフリカでこの今飢餓で死んでゆく子供たちにわれわれはどれほどの憐れみを抱いているだろう?

ドゥルーズの過激な定義にのっとれば、われわれはほとんどみな右翼である。

左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である。Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse(ドゥルーズ『アベセデール』)


………

ここでフロイトに戻ろう。ルソーは《苦しんでいる存在に同一化する identifiant avec lʼêtre souffriront ことによって》憐れみをもつと言っているが、フロイトも、《同情は同一化によって生まれる》と言っている。 

ルソーとフロイトは同じことを言っているのである。人は同情するから同一化すると考え勝ちかもしれないが、そうではないのである。先に同一化がある。

(自我が同一化の際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。

…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れ Introjektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)

ーーフロイトはここで対象人物の唯一の徴に同一化すると言っている。フロイトは例をだして対象人物の「咳」の仕方の徴にさえ同一化することがありうるといっているが、それは中井久夫が次の文で言っていることと同じメカニズムである。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

こうして同一化によりファシズム(結束)が生まれるのである。

「共感の共同体」日本における結束のあり方でもっともしばしば指摘されるのは、被害者との同一化である。

被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)

こうして庶民的正義感が生まれる。ときにひどく視野の幅が狭くなってしまう結束(ファシズム)である。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )

中井久夫が次の文で「おみこしの熱狂と無責任」というとき、日本庶民のファシズムの有様を指摘している。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」2005年『樹をみつめて』所収)


なにはともあれ人が同一化集団に置かれれば、批判力の欠如が起こりやすい。

集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

この「批判力の欠如」あるいは「思考の制止」は、どんな同一化集団の一員でもなかなか免れがたい。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


現在日本の政治的環境では「敵の敵は味方」だという機制が如実に働いているはずである。

「敵の敵は味方」という危険な格言は、イスラム原理主義運動にすら「進歩的」反帝国主義を見いだしかねないものであり、明らかに斥けなければならない。 (ジジェク『ポストモダンの共産主義--はじめは悲劇として、二度めは喜劇として』2010年)

たとえば敵の集団である。





そしてこれに対抗するための「敵の敵は味方」の同一化がある(「山本太郎」とはたとえばこうであろうという意味で、この名に限らない)。






不幸にもどちらの集団も知的劣化がはなはだしいという厳然たる事実がある。




誤解のないように断っておかねばならないが、賤民とは"Pöbel"の訳語であり、フロイトがしめした「集団」の意味である。

とはいえニーチェは同時にこうも記しているので、やはりニーチェ文脈では「賤民」なのである。

あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、[allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem」…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民 Gesindel のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気![Ach, Ekel! Ekel! Ekel! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」)

もっともあのタロウへの同一化による知的劣化現象は、庶民たちの精神衛生を考えれば、完全には否定しうるものではない。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化と同じメカニズムであろうから。

行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

………

安倍畜類同一化集団にはここでは何も言うまい。ここでは賤民同一化集団である。

たとえば日本政治における左翼ポピュリストたち、ーー現在ならその生き残りとしての共産党や立憲民主党の一部、過去なら社会党等ーーは、弱者に同一化して共感するという態度に貫かれてきた。

中井久夫のいうようにこの態度とは、《被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる》のである。

では、左翼ポピュリストたちの加害者側面とは何だろうか?  すくなくとも彼らは財政的幼児虐待 」をしてきた。

「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 日本でも一部で流通しているが、現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり「財政的幼児虐待」の内実は次のような意味である。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

この「財政的幼児虐待」とは本来、いまここにいない「未来の他者への虐待」を言わんとしているが、日本の場合は、池尾和人がいうようにそれだけではない。いまここに生きている若者たちがすでに、すくなくとも30年まえからの「財政的幼児虐待」の犠牲者である。





この虐待の最も典型的な実践者が左翼ポピュリズム政治家である。

1980年以降、すくなくとも1995年前後まで、彼らのほとんどは消費税反対あるいは消費税廃止を掲げて議席を勝ち取ってきた議員たちであり、よく知られた発言なら、日本社会党土井たか子委員長の「ダメなものはダメ」がある。



消費税の「導入」と「増税」の歴史
大平正芳
1979年1月
財政再建のため「一般消費税」導入を閣議決定。同年10月、総選挙中に導入断念を表明したが、大幅に議席を減らす。
中曽根康弘
1987年2月
「売上税」法案を国会に提出。国民的な反対に遭い、同年5月に廃案となる。
竹下 登
1988年12月
消費税法成立。
1989年4月
消費税法を施行。税率は3%。その直後、リクルート事件などの影響もあり、竹下首相は退陣表明、同年6月に辞任。
細川護煕
1994年2月
消費税を廃止し、税率7%の国民福祉税の構想を発表。しかし、連立政権内の足並みの乱れなどから、発表翌日に撤回。
村山富市
1994年11月
消費税率を3%から4%に引き上げ、さらに地方消費税1%を加える税制改革関連法が成立。
橋本龍太郎
1997年4月
消費税率を5%に引き上げ。
鳩山由紀夫
2009年9月
「消費税率は4年間上げない」とするマニフェストで民主党が総選挙で勝利、政権交代を実現。
菅直人
2010年6月
参院選直前に「消費税10%」を打ち出し、選挙に惨敗。
野田佳彦
2012年6月
消費税率を2014年に8%、15年に10%に引き上げる法案を提出。8月10日、参院本会議で可決成立。
安倍晋三
2014年4月
消費税率を8%に引き上げ。
2014年11月
2015年10月の税率10%への引き上げを2017年4月に1年半延期。
2016年6月
2017年4月の税率引き上げを2019年10月に2年半延期。
2018年10月
2019年10月に税率10%に引き上げる方針を表明。軽減税率を導入し、食品(外食・酒類を除く)は現行の8%の税率を維持する。



こういった過去におけるその場かぎりの弱者への同一化による同情が、現在の若者という財政的犠牲者を生んだ。これは左翼ポピュリズム政治家のあらゆる言い逃れを脇において、人はかならず認めなければならないことである。もちろん保守政権の、左翼ポピュリズムにまったく対抗できなかった(主に選挙のための)こよなき「ふしだらさ」もあった。

そして現在の若者たちの一部はタロウに同一化することにより、ふたたび未来の弱者への虐待に耽溺しつつある。

政治家が現在しなければならない本来のことは、たとえば2040年の庶民への同一化である。



2040年の若者たちを今の若者よりもさらにいっそう苦しめないように、現在なすべきことは、この今の世代の負担増と福祉減の可能性をさぐることであり、これが政治的には最も重要な課題である。

(この世界一の少子高齢化社会である)日本の場合、低福祉・低負担や高福祉・高負担という選択肢はなく、中福祉・高負担しかありえないことです。それに異論があるなら、 公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産業化するといった全く違う発想が必要になるでしょう。(財政と社会保障 ~私たちはどのような国家像を目指すのか~ 大和総研理事長武藤敏郎、 2017年1月18日)

だれがこれを否定できよう。上の図にしめしたように年金支給年齢をたとえば70歳にしたところで、高齢者1人当たりをささえる労働人口は現在並にしかならない。これが何を意味するのかは、たとえば「2040年の日本」を見よ。

左翼ポピュリズム同一化集団は、欧米の付加価値税への知もまったくないようにみえる。フロイトのいう「思考の制止」である。

たとえばEU は、 付加価値税(VAT ; Value Added Tax)をすべての加盟国に導入を義務付けており、その標準税率は、EU理事会の決定により、標準税率の下限が15%と定められていることをはたしてご存知だろうか?





付加価値税の最初の導入国フランスの最初期の税率は20パーセントであったのをはたしてご存知であろうか?




なぜ世界一の少子高齢化社会でこんなに低い国民負担率が可能なのかという疑問を抱いたことが一度でもおありだろうか?







批判力欠如の精神衛生向上ばかりやっていると、最も残酷な未来の庶民いじめ実践者になってしまうということにそろそろ気づくべきである。