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2019年10月17日木曜日

平等社会における暴力猖獗の必然

消費社会では、競合現象が露呈すると柄谷行人は80年代に言っている。

柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)

これは現在、世界的にこの傾向があるだろうが、日本はむかしから同質化社会といわてきた。日本がいじめ先進国である理由のひとつはこのせいである。

現在は新自由主義のイデオロギー(勝ち組ー負け組のシステム)による格差社会でありながら、同質化社会であることはかわりはない。つまり心情的には平等社会であり、そのためいっそう格差に苛立つということがあるはずである。

ところで、ジャン=ピエール・デュピュイは、正義の社会ではルサンチマンが身分社会にくらべいっそう渦巻くといっている。これは柄谷行人が言っている内容とよく似ている。

根源的イデオロギーのカテゴリーとしての「犠牲の神秘」について最もラディカルでクリティカルな分析を提供したのは『聖なるものの刻印 La marque du sacré』(2008)のジャン=ピエール・デュピュイである。…

デュピュイの偉大なる理論的ブレイクスルーは、「大他者」の出現と「聖なるもの the sacred,」の相を構成する「犠牲 the sacrifice」とを結びつけたことである。…犠牲を通して、大他者、つまり我々の行動を制限する超越論的審級が支えられている。

…(デュピュイの分析のもとでは)、主権国家の廃止と世界国家の設立は、暴力闘争を不可能にするどころか、むしろ「世界帝国」内部での新しい暴力形式を開く。「世界市民的理想は、永遠の平和を保証するどころか、むしろ限度なき暴力 la violence sans limitesにとってのお誂え向きの条件である。」(“Devons‐nous désirer la paix perpétuelle?” in Jean‐Pierre Dupuy, 2008)

デュピュイの結論はこうである。正義の社会、自らを正義と見なす社会がルサンチマンから逃れると考えるのは、大きな間違いである。反対にまさにそのような社会こそ、劣等の地位を占める者たちが、自らの傷つけられた誇りの捌け口として、ルサンチマンの暴力的噴出を生み出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

同質化社会ゆえに、格差があれば、《劣等の地位を占める者たちが、自らの傷つけられた誇りの捌け口として》、よりいっそうの《ルサンチマンの暴力的噴出を生み出す》のである。

フロイトはすでに「万人の平等こそ正義なり」をめぐって次のように言っている。

私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない。…しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もないイリュージョンIllusionであることを見抜くことはできる。

私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲 Aggressionslust からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。

攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき zärtlichen und Liebesbeziehungen の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。

物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係 sexuellen Beziehungen の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit] にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

フロイトにとって、性的魅力の相違がルサンチマンの根源なのである。

 上の文には次の注がついている。

注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 Ungerechtigkeiten を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

ーー同質化社会あるいは平等社会では、「肉体的素質と精神的才能」がルサンチマンの根になるということを言っていることになる。

そもそもフロイトは、ニーチェと同じように、社会的正義は嫉妬から生まれていると考えていた。

社会の中に集合精神 esprit de corps その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬 ursprünglichen Neid から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義 Soziale Gerechtigkeitの意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求 Gleichheitsforderung こそ社会的良心sozialen Gewissensと義務感 Pflichtgefühls の根源である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)

ラカンも同様であり、「善は悪の仮面にすぎない」と要約できることをセミネール7で言っている。


フロイトは「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」のすすめをしたが、その核心の一つは、「集団心理学と自我の分析」にあらわれる次の文章群である。

原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)



同一化は対象への最も原初的感情結合である。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れ Introjektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章)
理念 führende Ideeがいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきを呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)

自我理想とは、ラカン語彙では父の名である。

ラカンは、1968年の「父についての覚書 Note sur le Père」で《父の蒸発 évaporation du père》と言った。あるいは《エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971年)と。これは、もっと一般的な言い方なら「家父長制の崩壊」を意味する。

ようするに1968年の学園紛争をへて1989年のマルクスの死以降はとくに「父なき時代」であることが瞭然としてきた。上に掲げたフロイトの図をいくらか簡略して「父の時代/父なき時代」を対照させて図示すればこうなる。




父が権威として機能していた時代は、その父の同一化することによって共同体の成員は結びついた。他方、父なき時代は権威が空席なった時代である。そこでは成員同士のいがみ合いが起こりやすい。これを避ける手段のひとつが《特定の個人や制度にたいする憎悪》の対象を設定することである。

そしてその対象は自我理想=父の名と類似した機能をもつ。これがフロイト曰くの、憎悪対象にたいする《積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきを呼び起こす》である。

日本はかつてから父の権威の弱い社会だと言われてきたが、現在は世界も「構造的な日本化」をしている。そのひとつが「いじめの猖獗」である。

子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 (ドリス・レッシング Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994ーーなぜレイシズムが猖獗するようになったのか)