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2019年10月9日水曜日

剰余享楽=おしゃぶりのエンジョイ

剰余享楽とはなにかと言えば、「おしゃぶりのエンジョイ」である。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ようするに真の享楽の獲得は不可能だから、人は皆おしゃぶりで我慢しているのである。これがわれわれの人生である。

享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

ラカン派語彙とマテームで図示すればこうである。




出産外傷(原去勢)によってまず享楽の喪失(穴Ⱥ)→享楽の漂流(さまよい)がある。その漂流を固着するのが、享楽の固着Σ(リビドーの固着[S(Ⱥ)])。さらに享楽の漂流の《境界表象 Grenzvorstellung》(フロイト、1896)でしかない固着=死の欲動[参照]を飼い馴らすのがファルスであり、父の名NP。

上の図のAとは通常の言語等のマテームとは異なって次の意味である。

原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「Aの形態 la forme A」を取った何かを取り戻そうとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

そしてこの「A」が「J」の内実である。




別の言い方をすれば、剰余享楽とは享楽喪失(享楽の去勢)という穴Ⱥ(トラウマ)の穴埋め享楽である。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ[去勢] の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou [Ⱥ]と穴埋め bouchonを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)

肝腎なのは、剰余享楽には「もはや享楽はまったくない」という意味があることである(でもご安心を! 人には享楽なんかなくても快楽ぐらいはあるから)。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)


 したがって剰余享楽は享楽欠如のエンジョイとも呼ばれる。


■剰余享楽=享楽欠如のエンジョイ
最も純粋には、剰余享楽としての対象aの享楽とは、享楽欠如の享楽(享楽欠如のエンジョイ)のみを意味する。At its purest, the jouissance of the object a as surplus jouissance can only mean enjoying the lack of enjoyment (ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
欲望は、欠如の換喩と同じ程度に、剰余享楽の換喩です。 le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.…

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如(エンジョイを欲する [manque à jouir]) です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]」と呼んだものです。

けれども、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如の享楽(享楽欠如のエンジョイ[jouir du manque à jouir] )が可能です。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »)


さらにマルクス的快とも呼ばれる。

■マルクス的快=剰余享楽
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[La coquille à entendre à jamais l'écoute de Mar]x、…この剰余価値[la plus-value]は経済が自らの原理を為す欲望の原因[ la cause du désir]である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如 manque-à-jouir の原理である。(ラカン、ラジオフォニー, AE435, 1970年)

これについては、ピエール・ブリュノとジジェクを読めばそれがいっそうよくわかる。

剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵の発見は、次のことを認知を意味する。すなわち剰余享楽の必然性が、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan, Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていること。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望 la soif du manque-à-jouir への明らかな参画を覆い隠すために。[induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir] 》(LACAN, Radiophonie)

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(Pierre Bruno, capitalist exemption, 2016)

《飲めば飲むほど渇く》とは、「おしゃぶりすればするほどおしゃぶりしたくなる」ということである。

つぎにジジェクである。こっちのほうがおしゃぶりのメカニズムについてよりいっそうわかりやすいかもしれない。

対象a は、ラカンの教えにおいて、長い歴史がある。マルクスの『資本論』における商品分析への体系的準拠よりも10年以上先行している。しかし疑いもなく、このマルクスへの言及、とくに剰余価値 Mehrwert 概念への参照は、剰余享楽(plus-de-jouir, Mehrlust)としての対象a 概念を「成熟」させた。

ラカンによるマルクスの商品分析へのすべての参照に浸みわたる支配的モティーフは、マルクスの剰余価値とラカンが名付けた剰余享楽とのあいだの構造的相同性である。剰余享楽は、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだ現象であり、それは、快へと単純に駆け上ることを意味しない。そうではなく、快を得ようとする主体の努力のなかで、まさに形式的迂回路によって提供される付加的な快である。

(……)リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している サモ・トムシックSamo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。

口唇欲動がいかに機能するかの古典的事例がある。乳房を吸うという目的は、母乳によって満たされることである。リビドー的獲得は、吸啜の反復性動作によってもたらされ、したがってそれ自体が目的となる。

(……)Lustgewinn(快の獲得)の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快の断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は、抑圧の欲望へと反転、等々。すべての事例において、獲得は「パフォーマティヴな」レベルで発生する。すなわち、目的地に到達することではなく、目的地に向かっての動作の、まさにパフォーマンスによって生み出される。(ジジェク, Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge, 2016)

これらは柄谷がすでにトラクリで言っていることと基本としては変わらない。→「資本の論理(文献列挙)

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


………

と引用していて思い出したので、もうひとつ剰余享楽の定義を掲げておこう。昇華である。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)


昇華の対象とは、たとえばヴァレリーの場合、詩であった。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。

二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。

しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。

彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

ま、女狂いをしても真の享楽は訪れないが、詩やら学問やらをしているよりは、ずっと原享楽に近い。




ラカンは原初に喪われたものは、胎盤だとか羊膜だとか言っているが、羊水でいいのである。だからすいかの割れ目からこぼれおちるおつゆだっていいさ。この写真は中央底のシミがなければなにものでもない。あのシミにほれぼれしてしまう。ジャコメッティの宙吊りになった玉とおなじぐらいいい。




ラカンはこう言っている。

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

モノとは何かと言えば、享楽の空胞 vacuole de la jouissanceである。



おわかりだろうか? ジャコメッティはよくわかっていたのである。





人はみな剰余享楽の人生を送るのである。どうせなら女狂いという剰余享楽をおすすめする。女性の場合はどうしたらよいのか。男狂いではない。ナルシシズムである、自らの女を磨くことが、正しい剰余享楽の人生の送り方である。もっとも男狂いで割れ目は磨かれるのかもしれないが、そのへんの消息はよくしらない。

あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(川端康成『雪国』)

ところでこの2、3ヶ月のあいだにロシア文学をそれなりに読んだのだが(チェーホフ、トルストイ、ドストエフスキー)、いま振り返るとなによりもまず思い返すのは女たちである。




あの女たちはイッテばっかりなのである。ヒステリーで。


ロシアの女ってのはなんであんなにいいんだろ? プルーストを読んでいても女狂いになりそうな女はでてこないのだが、あれら小説のなかのロシア女ってのは10人ぐらいは狂いたくなるな。





彼女はまだじゅうぶんに美しいままである。





ーーこれは音程が合わなかったんだろうかな、それとも出産休暇直後で声をだすのを遠慮したのだろうか(13キロほど太ったそうだが)。

本来はこういう声のアンナ・ネトレプコである。