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2019年10月27日日曜日

エスの意志の境界表象 S(Ⱥ)

前回示した図を再掲しよう。



これについて次の文章群を引用した。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
私は欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […]on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

これだけではわかりにくいだろうことは判っていたが、あまりにも長くなりすぎるので詳細は割愛したのである。

最も重要なことは、 S(Ⱥ)とはȺの境界表象だということである。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

したがって上のは図は厳密には次のように図示すべきかもしれない。





 S(Ⱥ)とは、「S(Ⱥ)=サントームΣ=原抑圧(リビドー固着)=超自我=女というもの=タナトス」であるのは、前回示したとおり。

このS(Ⱥ)はȺーー享楽の漂流=死の欲動ーーの原象徴化(原飼い馴らし)機能をもつのに、なぜタナトスのマテームなのか?

それはフロイトがこう説明している。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

これをフロイトの遡及性用語で言えば、潜在的リアルとしての死の欲動Ⱥは、固着S(Ⱥ)によって遡及的に現勢化されるのである。

S(Ⱥ)とは身体から湧き起こる欲動の奔馬を飼い馴らす最初の鞍でありながら、欲動は十分には飼い馴らしされず、エスの審級にその残滓が居残ることを示すマテームなのである。

これをミレールは「享楽の残滓」という語で説明している。

不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

ーー実際のところは、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」という表現を直接的には使っていない。「残滓」とあってしばらくして「リビドー固着云々、享楽云々」とあるだけである。

このミレール曰くの「享楽の残滓」はフロイトの「リビドー固着の残滓」と等価である。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich とあるが、これが死の欲動であり、エスの意志である。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
エスの力 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe(リビドー)と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)

したがってこのS(Ⱥ)をさらに飼い馴らすシニフィアンとしての父の隠喩あるいはファルスが必要なのである。これがミレールのいう《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである》(Ce qui fait insigne,1987)である。

ここで前回引用しないまま割愛した引用群を掲げていま記したことの裏づけとしよう。


母なる原シニフィアン=享楽の侵入の記念物=唯一の徴=死の徴
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17, 11 Février 1970)
私が「徴 marque」、「唯一の徴 trait unaire」と呼ぶものは、「死の徴 (死に向かう徴付け marqué pour la mort)」である。…これは、「享楽と身体との裂け目、分離 clivage, de cette séparation  de la jouissance et du corps」…傷つけられた身体désormais mortifiéを基礎にしている。この瞬間から刻印の遊戯 jeu d'inscriptionが始まる。(ラカン、S17, 10 Juin 1970) 
唯一の徴 ≒ 骨対象(身体の上への刻印)=享楽の固着
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
ラカンは、対象aの水準における現実界を位置付けようとした [tenté de situer le réel au niveau de l'objet petit a]。シニフィアンの固着の場においてである [à la place d'une fixation de signifiant]。それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。( J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 11/12/96)


ところで、である。じつは晩年のラカンの思考はさきほど記したほど簡単なものではない。「享楽の固着」と「ファルスによる享楽の飼い馴らし」のあいだにも人間には飼い馴らし機能がある。

「父の名の排除」は父の名の排除ではなく「S2の排除」」にて、ラカンのアンコールでの最終講義にある図を利用して、説明抜きで次の図を掲げた。




これを日本語で表示すれば次のようになる。




サントームΣが、固着S(Ⱥ)のポジションとともに「父の版の倒錯」のポジションにも置かれている。サントームは二種類の意味があるのである。それは「二種類のサントームについて」にて比較的詳しく示したが、ここでは二文のみ引用する。

まず固着としてのサントーム(原症状)。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

次に「父の版の倒錯」としてのサントーム(固着に対する防衛としてのサントーム)。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

上の表では便宜上、「父の版の倒錯」と「父の隠喩」とを区分したが、本来的には「父の隠喩機能をもつ父の名」自体、「父の版の倒錯」に含まれる。

最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)

ようするに晩年のラカンにとって、神経症とは「最も重症の」父の版の倒錯者なのである。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

ーーこの論理を受け入れるかどうかは読み手におまかせする。

ラカン派には流派によって「一般化妄想 délire généralisé 」(人はみな妄想する)と「一般化倒錯forclusion généralisée」(人はみな倒錯する)という二つの概念を強調しているが、これはどちらも「人はみな穴埋めする」という意味である[参照]。この穴埋めをしなくてはならない穴を「一般化排除の穴」と呼ぶ。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)

あるいは「享楽欠如の穴」とも呼ばれる(参照)。

疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

この「一般化排除の穴」あるいは「享楽欠如の穴」は、「女性のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme」の穴Ⱥ(トラウマ)と等価である(参照)。

ミレールはこう言ってる。

人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique,« Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)

この女というものの排除、あるいは一般化排除(一般化トラウマ)の穴に対する穴埋めが、「現実界に対する防衛」という意味であり、一般化妄想もしくは一般化倒錯に相当する。

我々の言説(社会的つながり lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)

以上、わたくし自身はこう考えているということであり、上のようにに厳密に言っているラカン派注釈者を知らない。もうたずねてこられてもこれ以上説明しないよ、ラカンおたくみたいに思われちまうからな。それとボロをだしたくないのでね。

ま、フロイトやラカンってのはみんなそれぞれの仕方で模索してるわけで、正しい解なんてけっしてない。それはプラトンやデカルトなどの読解に正しい解がないのと同様。

……

※付記


■ドゥルーズガタリ版「享楽の固着」




リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホール となり[le chaos est un immense trou noir]、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を固着しようとする[on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre]。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観」を作り上げる(形態ではなく)[on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable]。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木 して、ブラックホールの外にでる。[on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir. ](ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ーードゥルーズガタリはこの直後、ポール・クレーの名を出しているが、どの作品のイメージによってこう言ったのかについては触れていない。


このリトルネロとはラカン派においてララングであり、ララングとはサントームΣ= S(Ⱥ)とほぼ等価である。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)
ララング lalangueが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)


■ラカン派版「享楽の固着」変奏

ラカンの考え方が、ドゥルーズガタリと同じ考え方だというつもりはないが、上の図を使ってここまで記してきたことを「仮に」置けばこうなる(たぶん、父の隠喩の箇所とドゥルーズの接木はちょっと違う)。







最後に『千のプラトー』のなかの最も美しい文のひとつを掲げておこう。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれ esquisse d'un centre stableであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ calme, stabilisant et calmant, au sein du chaos。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる début d'ordre dans le chaos。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険 risque aussi de se disloquer à chaque instant もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

Error on green, 1939 by Paul Klee,


リロルネロ ritournelle の三つの相は、ボクに言わせれば、これだな、逃げ道の先に女の足があるからな、ーー《逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる》。

やっぱりブラックホールよりも足を遠くから眺めているほうがいいよ。トシのせいかもしれないけど。

ジャコメッティ「宙吊りになった玉 Boule suspendue」

ーー《歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ》

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。

toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte (Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)