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2019年10月27日日曜日

神は女である(神は母である)

次の文はいままで何度も繰り返して引用してきた。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されるMuttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

一般にはまったく受け入れられないだろうが、受け入れないならそれはそれでよろしい。フロイト・ラカンは無意識の話をしているわけで、意識の領域の思考しかしていない人が「まさか!」と思うのは当然である。

とはいえ、この蚊居肢ブログをそれなりに読んできたらしき方から、いまごろになって「この神とは?」などという問いをされると、茫然自失気味にならざるをえない。

以下、今後の用心のために基本資料の列挙をしておく。

注釈をいれる気にはならない。注釈を入れれば途轍もなく長くなるということ以外に、わかる人には注釈なしでわかるだろうし、わからない人にはいくら注釈してもムダであるというふうに言わざるをえない。

引用列挙の前に最もベースの話をひとつだけしておけば、乳幼児のエスから湧き起こる身体の欲動興奮を最初に飼い馴らすのは必ず、母もしくは母親役の人物である。これは誰もが認めるはずである。

この前提で以下の引用群を読んでいただきたい。


◼️原大他者=母=母なる超自我(原超自我)=原支配者・原誘惑者
全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


◼️S(Ⱥ)=原抑圧(固着)=サントームΣ
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目(欲動の固着)である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
サントーム Σ としてのS(Ⱥ) [grand S de grand A barré comme sigma](Miller, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


◼️ S(Ⱥ)=超自我=原抑圧
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。

Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)
二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を同一のものとするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。

Le résultat de repérer le surmoi sur ce signifiant binaire, c'est de rapprocher le surmoi et le refoulement originaire. Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


◼️超自我S(Ⱥ)=タナトス
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


◼️欲動の現実界=原抑圧=サントームΣ=S(Ⱥ)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、 Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


◼️S(Ⱥ) =女というもの=神=超自我
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。

il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
一般的には神と呼ばれるもの……それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)


◼️母(母の欲望)=原穴の名=原リアルの名
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、シニフィアンの空無化作用によって生み出された「原穴の名 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
私は欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

※より詳しくは、「エスの意志の境界表象 S(Ⱥ)


■享楽の固着=リビドーの固着S(Ⱥ)=原無意識
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)


◼️モノ=母=享楽の対象(喪われた対象)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


■大他者の享楽=死
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。大他者の享楽 jouissance de l'Autre (身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話に反して、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。[Cette jouissance de l'Autre, dont chacun sait à quel point c'est impossible, et contrairement même au mythe, enfin qu'évoque FREUD, qui est à savoir que l'Éros ça serait de faire Un]

…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close

・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

ーーこの享楽=死の相についての別の視点からの引用群は、→「原ナルシシズムと原マゾヒズムの相違はなにか」を見よ。

身体の享楽(大他者の享楽)の究極的な意味は、出生によって喪われた「母なる身体の享楽」である。そしてこれを享楽することは不可能であり、その享楽の実現とは、母なる大地への回帰=死でしかない。

なお上の列挙において、「=」ではなく「≒」の項もあるが、ここでは(厳密さを期さずに)すべて「=」とした。