神のタタリの土地で生まれた女(ひと)が
アニミズムのかわりに「実存」なんて言葉を使ってしまって。
その土地に住み神に仕えた近親者をもつひとの
近親憎悪のたぐいなんだろうかね
でもそんなものはゴマカシにすぎないよ
神のタタリ |
2017年のなかばごろはこればっかり考えていたのだけれどな、いまの「神のタタリ」だけではなく、たとえば「創唱宗教/自然宗教」、「文字なしとて事たらざることはなし」「コトバとコトバの隙間が神の隠れ家」等々。
ボクにいわせればアニミズムとは「実存=脱自」だよ。外に立つという意味でのね。身体的なものが言語の外に立つんだ。ラカンの外立ex-sistenceとは、もともとハイデガーの実存Eksistenzにインスピレーションを受けた語だけれど、その内実は後年になればなるほどハイデガーの使う意味から離れてゆく。
「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
この「排除」については、前回いくらか記した。ここでは外立という語の使用法をいくつか示そう。
・享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
・外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)
・原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
・神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
原抑圧の外立とは、「享楽の固着の外立」のことで、ようするに享楽の排除と享楽の固着は、--これはラカン派でもだれもいっている人は知らないがーー同じ意味だと断言的に宣言しておく。
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
簡単にいってしまえば、「享楽の外立」とは、「身体の外立」である。折口信夫と柳田国男の定義なら、この身体の外立とは、「身体のタタリ」である。
たえまず身体のタタリがあるんじゃないでしょうか、あなたは。ボクもあなたほどひどくはないだろうけど、たぶんふつうの人に比べればかなりあるよ、神のタタリの土地の傍に生まれているせいかもな。園子温ってのは隣町生まれのボクの3年下なんだけどあのタタリの土地では「愛のむきだし」になりがちなのさ(これはもちろんジョークだよ)。
・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。
・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。
・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。
・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)
タタリという日本語のもとの意味は、こういう神がかりの最初の状態をさしたものと、私だけは考えている。タタエ・タトエ・タツなども同系の語で、タタリにはもとより罰の心持はなく、ただ「現れる」というまでの語だったかと思う。(柳田国男『みさき神考』)
ボクにとってのアニミズムの最も簡潔な定義は谷川俊太郎にある(これはボクのひどく偏った頭のなかでは、と言っておいてもよいよ)。
「おやすみ神たち」 谷川俊太郎、2014年
神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから
コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから
おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが
神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから
コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから
おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが
いつまでも世界をいじくり回しても
なぞなぞの答えが見つかる訳もなく
創ったつもりで壊してばかり
空間はどこまでも限りなく
時間はスタートもゴールも永遠のかなた--
私は神たちに子守唄でも歌ってやろう
さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、
さて人の中の神は、先づかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、
さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子(もも)に意富加牟都美命((おおかむつみのみこと)と云名を賜ひ、御頸玉(みくびたま)を御倉板擧(みくらたなの)神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉(いわねこのたちかやのかきば)のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり、)
抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差(たが)ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける」(本居宣長『古事記伝』三)
彼が註解者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、其処では、神という対象は、その名と全く合体しているいるのである(高天原という名にしても同様である)。彼が立会っているのは、例えば「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)」の二柱の神の御名を正しく唱えれば、「生(ムス)」という御名のままに、「万ヅの物も事業(コト)も悉(コトゴト)に皆」生成(ウミナシ)賜う神の「かたち」は、古人の眼前に出現するという、「あやしき」光景に他ならなかった。(小林秀雄『本居宣長』四十八)
文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。(小林秀雄『本居宣長』四十八)
ほんらいここからラカン的な注釈をつけくわえるべきかもしれないが、いまはもうやめとくよ。「神の仮説=女性の享楽≒ララングの享楽(言葉の物質性の享楽)」ってのがあるのだけれど(ここでの女性とは解剖学的な女性ではなく「身体」の意味)。晩年のラカンの神とはけっして一神教の神ではなく多神教の神(アニミズム的神)。
だいたい実存なんて言葉使ったら、言葉の物質性(「もの」としての言葉)からかぎりなく離れてしまうよ、大切なのはタタリだね。一神教文化の詩文やら現代思想やらフェミニストやらの言説ばっかりに耽溺していたら(しかも言葉の物質性を削ぎ落とした翻訳で)、せっかくいいせんまでいっているのに逆行しちゃうんじゃないか、とは言っておくよ。
以下の表に「存在」とあるのが、ラカン的な意味での実存(享楽の外立)であり、身体のタタリである。
以下の表に「存在」とあるのが、ラカン的な意味での実存(享楽の外立)であり、身体のタタリである。
ーーボクはハイデガーはまったくといっていいほどしらないけど、ハイデガーの実存ってのは、せいぜい象徴界の中の現実界の機能でしかないんではないかと睨んでいる。「象徴界の中の現実界の機能」についてのもういくらかの詳細は、「現実界のオートマトン」参照。
そもそもこのところしばしば示しているバルトの「身体の記憶」とは「身体のタタリ」のこと。
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年ーー失われた時の記憶と胎内の記憶)
そして最も古い身体の記憶とは、胎内の記憶。
胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。
触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。
聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。
視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)
これはすこし考えてみれば、誰にも疑いの余地のない話のはずである。