ニーチェの”lust”を”jouissance féminine “に置き換えてみよう。
女性の享楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
…すべての女性の享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)
女性の享楽が欲しないものがあろうか。女性の享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。女性の享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が女性の享楽のなかに環をなしてめぐっている。――
_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)
ーーじつにピッタンコである。
永遠回帰とは古代ギリシア時代においては、ウロボロス ouroboros の表象で示された。
これはたぶん月女神の表象としてもよいのではないか。
月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。
三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」( 松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf)
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1888年)
ここでツァラトゥストラの詩文をいくらか改訳してラカン文とともに並べておこう(Gottes Larveは「神の幼虫」であるとともに「神の仮面」とも訳せる。事実、手元の英訳はGod'maskとなっている)。
「純粋な者たちReinen」よ、神の仮面 Gottes Larveが、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロスgreulicher Ringelwurm)がいる。Eines Gottes Larve hängtet ihr um vor euch selber, ihr "Reinen": in eines Gottes Larve verkroch sich euer greulicher Ringelwurm. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」)
女というものは神の別の名である。その理由で、女というものは存在しない」のである。La femme […]est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas. (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
………
以上は究極的には上のようでありうるという意味であり、より臨床的なフロイト・ラカン派はどのように考えているかを次の示す。
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […]on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
サントームは、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。…sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
Ewige Wiederkunft des Gleichen
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Le Sinthome Σ
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S(Ⱥ)
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Événement de corps
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Fixierung an das Trauma
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Le Yadl'Un
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Grenzvorstellung
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Le signifiant Un
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Fixierungen der Libido
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Le signifiant tout seul
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Fixations de jouissance
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S1 sans S2
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Urverdrängung, Überich
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Il y a le Un et le corps
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Automatismus
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auto-jouissance du corps
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Autoerotismus
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jouissance de Lⱥ femme
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primären Narzissmus
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jouissance du corps propre
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jouissance autiste
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Wiederholungszwang des unbewußten Es (Thanatos)
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まず同一のものの永遠回帰である。フロイトは『快原理の彼岸』上梓前年に次のように記した。
同一のものの反復の不気味さ das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr がいかにして幼児の心的生活から演繹されうるかを、ここではただ示唆するにとどめて、そのかわりこれについてはすでに、これを別の関連において詳細に論じた仕事(「快原理の彼岸」)のあることをお知らせしておく。
つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫 Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快原理を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を思い出させうるものこそ不気味なもの unheimlich として感ぜられると見ていいように思う。(フロイト『不気味なもの』1919年)
そして翌年、直接的に「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」という表現が出現する。
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
最晩年にはこの反復強迫をめぐって 「自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen」という表現があり、トラウマへの固着とされている。
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…このトラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我の傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
この「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」の反復強迫がフロイトにとって冒頭に引用したニーチェの次の文における「常に回帰する自己固有の出来事」に相当する。
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
中期フロイトはトラウマへの固着を「リビドー固着のエスのなかの置き残し」と表現した。
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を(エスに)置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
最晩年のフロイトはこの「置き残し」を原無意識(リアルな無意識)ともしている。
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
フロイト曰くの「自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper」をラカンは「身体の出来事 un événement de corps」と呼んだ。
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ようするに固着としての症状は、身体の上への刻印(不変の個性刻印unwandelbare Charakterzüge)という意味である。
症状とはラカンが固着に与えた名である。Le symptôme est le nom que Lacan donne à la fixation (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Options lacaniennes de mars 1994)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixionである。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
このトラウマへのリビドー固着を、ラカン派では享楽の固着とも呼ぶ。
フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ーー事実上、享楽=身体であり、「身体の固着」と呼んでもよいだろう。《ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった》 MILLER, 2011)。「身体の固着」とは身体的なものが心的なものに移行されず、現実界のなかに置き残されるという意味である。
そしてこれが反復強迫を引き起こす。
享楽の固着とそのトラウマ的作用がある fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
身体の出来事としての症状は、サントーム(原症状)のことである。
ーーサントーム=固着であることの詳細は「サントームは固着である Le sinthome est la fixation」を参照。
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
そしてサントーム=女性の享楽である。
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。
その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
そして享楽自体=女性の享楽とは自体性愛でもある。
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。
…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
※女性の享楽は最も深い意味では、構造的外傷神経症に相当する[参照]。固着によってエスのなかに置き残された身体の享楽であり、暗闇に蔓延る異者としての身体の享楽である(参照:「暗闇に蔓延る異者としての女」)。
リビドー固着=サントーム=女性の享楽=自体性愛であり、これが享楽自体である。
ラカンがサントームと呼んだものは、反復的享楽であり「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。…それはただ、S2なきS1[S1 sans S2]=固着を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'être et l'un、23/03/2011)
サントームを「一のようなものがある Y'a d'l'Un」とも呼ぶ。以下Hélène Bonnaudというミレール派女流分析家の記述を引用するが、これはミレール2011のセミネールの要約である。
ラカンはサントームを「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「Y'a d'l'Un」は、…シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。il dégage comme son réel essentiel l'itération […] comme ce qui reste de l'articulation signifiante.
ラカンは言っている、「二」はない[il n'y a pas de deux]と。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら「一」である[Il n'y a que le un qui se répète dans l'itération]。しかしこの「一 」は身体ではない。一と身体がある [Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps. ]…シニフィアンの彼岸には、身体とその享楽があるのである。Au-delà du signifiant, il y a le corps et sa jouissance. (Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)
自体性愛=原ナルシシズム=自己身体の享楽=自閉的享楽であるのは、ラカンはセミネール10ですでに示している。
自己身体の享楽=原ナルシシズム=自体性愛=自閉症的享楽
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(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。
この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。
ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
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自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001)
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ナルシシズムの深淵な真理 la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissismeである自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
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ここで冒頭の近くに掲げた図を再掲しよう。
ここにある用語群のその他もろもろーー、S(Ⱥ)=Σ=原抑圧=超自我=タナトス等については、「超自我注釈集」を見よ。
………
ところで身体の出来事としての固着は、具体的には何によって起こるのだろうか。
フロイトは固着にかんして次の表現を示している。
固着とは上の表の最後にあらわれる事故的トラウマ以外は、欲動の処理にかかわる構造的トラウマ(フロイトの表現なら「病因トラウマ」)である。身体から湧き起こる欲動の奔馬を最初に飼い馴らす鞍を固着と呼ぶのである。だれが飼い馴らすのか。だれもが認めるだろうように主に母である。したがって固着とは母の徴、母による身体の上への刻印と呼びうる。
ラカンはこの母の徴を《象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel 》(S5, 1958)と呼び、あるいはその徴づけの主を母なる超自我と呼んだ。
そして神とはじつは超自我の作用にすぎないと言った。
したがってラカンは《女というものは神の別の名である》(S23、1975)というのである。
ここでニーチェに戻ろう。ニーチェのわたしの恐ろしい主人とは何だろうか?
ーー《「純粋な者たちReinen」よ、神の仮面 Gottes Larveが、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロスgreulicher Ringelwurm)がいる。》.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」)
ツァラトゥストラの序文には、鷲の首に巻きつく蛇がいる。
さてどうだろう? 勝手な解釈をさせてもらえば、究極のウロボロスの享楽=永遠回帰は、おそらく次の文が示している。
ーーここに「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体の機能をもつ月女神を読むこともできるかもしれない。
ボロメオの環にて「創造→維持→破壊」を示しておこう。
ーーちなみにラカン的には、赤い環と青い環の重なり箇所が女性の享楽=母なる超自我のポジションである。
最後に「創造→維持→破壊」にピッタリのーー「生む女」「愛人」「死の女神」ーー、フロイト文をも掲げておこう。
………
ところで身体の出来事としての固着は、具体的には何によって起こるのだろうか。
フロイトは固着にかんして次の表現を示している。
トラウマへの固着と反復強迫
(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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Fixierung an das Trauma und Wiederholungszwang.
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女への固着(通常は母への固着)
(性欲論、1905年)
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Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)
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母への愛の欲求の固着
(レオナルドダヴィンチ論、1910年)
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Fixierung der Liebesbedürfnisse an die Mutter
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原対象選択の人物への固着
(精神分析について、1910年)
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Fixierung an die Personen der primitiven Objektwahl
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母へのエロス的固着
(精神分析概説、1938年)
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erotischen Fixierung an die Mutter
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母への原固着 =原トラウマ=出産外傷
(終りなき分析、1937年)
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»Urfixierung«an die Mutter =Urtrauma=Trauma der Geburt
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外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっている。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
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ラカンはこの母の徴を《象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel 》(S5, 1958)と呼び、あるいはその徴づけの主を母なる超自我と呼んだ。
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
そして神とはじつは超自我の作用にすぎないと言った。
一般的には神と呼ばれるもの……それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)
したがってラカンは《女というものは神の別の名である》(S23、1975)というのである。
ここでニーチェに戻ろう。ニーチェのわたしの恐ろしい主人とは何だろうか?
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。
……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
ーー《「純粋な者たちReinen」よ、神の仮面 Gottes Larveが、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロスgreulicher Ringelwurm)がいる。》.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」)
ツァラトゥストラの序文には、鷲の首に巻きつく蛇がいる。
正午の太陽が彼の頭上にかかった。そのときかれは問いのまなざしを空にむけたーー高みに鋭い鳥の声を聞いたからである。と、見よ。一羽の鷲が大いなる輪を描いて空中を舞っていた。そしてその鷲には一匹の蛇がまつわっていた。鷲の獲物ではなく、友であるように見えた。鷲の頸にすがるようにして巻きついている[und an ihm hieng eine Schlange, nicht einer Beute gleich, sondern einer Freundin: denn sie hielt sich um seinen Hals geringelt. ]. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「序文」1883年)
さてどうだろう? 勝手な解釈をさせてもらえば、究極のウロボロスの享楽=永遠回帰は、おそらく次の文が示している。
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
ーーここに「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体の機能をもつ月女神を読むこともできるかもしれない。
ボロメオの環にて「創造→維持→破壊」を示しておこう。
ーーちなみにラカン的には、赤い環と青い環の重なり箇所が女性の享楽=母なる超自我のポジションである。
最後に「創造→維持→破壊」にピッタリのーー「生む女」「愛人」「死の女神」ーー、フロイト文をも掲げておこう。
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。
すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。
そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)