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2019年12月19日木曜日

まことに、わたしはあの虚弱者たちを笑った

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)
わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

……

善は根源的・絶対的悪の仮面にすぎない。Good is only the mask of radical, absolute Evil…善の背後には根源的な悪があり、善とは「悪の別名」である。Behind Good, there is radical Evil: Good is "another name for an Evil" (ジジェク『斜めから見る』1991年)
根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮ーー罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、大衆からの賞賛、選挙で勝つ為等々)から規範に服従することである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」2001年)
私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なのだということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)

《覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。》(Slavoj Žižek speaks at Occupy Wall Street)

わたしが言いたいのはもちろん、現代の「狂気のダンス」、多様で移動するアイデンティティの爆発的氾濫もまた、新たなテロルによる解決を待っていると言うことだ。唯一「現実的」な見通しは、不可能を選ぶことで新たな政治的普遍性を基礎づけること、まったき例外の場を引き受け、タブーもアプリオリな規範(「人権」、「民主主義」)もなく、テロルを、権力の容赦ない行使を、犠牲の精神を「意味づけなおす」のを妨害するものを尊重すること……もしこのラディカルな選択を、涙もろいリベラルが「ファシズムへの道」だと非難するなら、言わせておけ! (バトラー、ラクラウ、ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』2000年)

社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にたいする暴力とならざるをえない。そもそもすべての革命はテロである。

一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、悪徳の評判などかまわずに受けるがよい。(マキャベリ『君主論』)
行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」2001年)
資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2008年)
ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)

ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)
要するに、(ポピュリストたちの)「善い」選択自体が、支配的イデオロギー(資本主義)を強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant, Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist, 2008)


現在の左翼は、弥縫策を提示する涙もろい輩ばかりである。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

そもそも連中はいまだ福祉国家継続が可能だと考えている。

一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、…我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。

… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)

世界的にもジジェクはこういう認識をしている。ましてや世界一の少子高齢化社会日本で福祉国家継続がありうるはずはない。



もっともこの人口構成で社会を継続してゆくには、福祉国家を断念しても、労働人口に対する負担増は避けられない。誰もがそれを悟る筈だ、もしはユートピアン(夢見る人)でなければ。姥捨て山社会にしたくなければ。

以上、政治的ジジェク派としてはこのように考えているということだ。もっとも具体的にどうすべきかはジジェクにもない。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク『毛沢東、実践と矛盾』2007年)

わたくしの知るかぎり柄谷行人の世界共和国(世界同時革命)しかめぼしいものはない。もともとかねてからラディカル左翼からバカにされていたマルチチュード運動はネグリ自身が2018年に否定し事実上捨て去った(参照)。マルチチュードを浅田彰は「有象無象」と訳しているが、有象無象運動では何も変革しえない。

柄谷の世界共和国にかんする基本的思考は次の文に収斂する。

もし協同組合的生産 genossenschaftliche Produktion が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 kapitalistische System にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 Gesamtheit der Genossenschaften が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー beständigen Anarchieと周期的変動 periodisch wiederkehrenden Konvulsionenを終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるmögliche」コミュニズム Kommunismus 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)

だが狭い日本においてさえその試みは挫折した。

話を戻せば、技術革新ーー食べ物が天から降ってくるとか、電気やガスが地底から湧いてくる等の技術革新があったら、いけるかもな、それに期待してんだろうよ、あれら頓珍漢の左翼たちは。あれらカボチャ頭の左翼たちにとっては。

地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006年初出『日時計の影』所収)
地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 Wouldn't the best thing for the earth be to organize slowly so that two thirds of the people will die? (ジジェク『ジジェク、革命を語る DEMANDING THE IMPOSSIBLE』2013)

……

※付記

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)

最後に若き岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』、若き柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』から掲げておこう。最近、ドイツでなんたらの賞をとったらしいボウヤの、いかにも狭隘なマルクス論が日本で流通しているらしいが、人はまず若き岩井、若き柄谷を消化せねばならない(ああいった「大洪水」やらというほとんど環境問題に的を絞ったとしか思われない書が、知的退行の21世紀における資本の論理に囚われた消費的読者には受けるんだろうがね、ま、なにもしらないよりましって程度だな、ボクは読んでないからよくしらないけど、お勉強家のボウヤの鳥語を覗くかぎりハナカラ馬鹿にしたくなるね。もちろん人によってはマルクスの入り口になりうるのかもしれないが、そこから前に進むかどうかだな、肝腎なのは)。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)

ーー「無根拠であり非対称的な交換関係」とは、ラカンの穴=非関係である。

穴 trou は、非関係 non-rapport によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念 la notion de symptôme は、…マルクス MARX を読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(Lacan, S18, 16 Juin 1971)
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。(Lacan, S22, 18 Février 1975)

ようするにマルクスの剰余価値 Mehrwert =剰余享楽 plus-de-jouir(非全体pastoutあるいは非関係 non-rapportの穴埋めとしての対象a=フェティッシュ )である。

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。⋯

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。…

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)

これ以外にもマルクスから学ぶとは、経験論的思考と構造論的思考を行き来することを学ぶことであるとわたくしは思う。資本論冒頭の「価値形態論」とともに『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』はその最もすぐれた書のひとつである。なかんずく経験論者ばかりが跳梁跋扈している日本では、これがマルクスを読む最大の価値のひとつでありうる。構造主義の始祖レヴィ=ストロースは、彼の二人の真の師としてマルクスとフロイトを挙げている。

→「マルクス的な「構造的作業仮説」のすすめ