絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです。(バルテュスーー脳科学者セミール・ゼキとの対談)
ああ、あなたは言語ばかりに頼っているからだよ。
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
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「女性の享楽と女性の仮装」と「大他者の享楽の決定的注釈」で記したことをいくらかまとめておこう。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。大他者の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre は身体の享楽であり、より厳密には「異者としての身体の享楽 jouissance du corps étranger」であることを「大他者の享楽の決定的注釈」で示した。
また、女性の享楽 jouissance féminineは「異者としての身体の享楽 jouissance du corps étranger」であることを「女性の享楽と女性の仮装」で示した。
つまりはこうである。
この異者としての身体とは「エスの身体」のことである。
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
晩期フロイトの別の表現の仕方なら、次のものがエスの身体に相当する。
リビドー 固着の残滓
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発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
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エスの核のリアルな無意識
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エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
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人の発達史と人の心的装置において、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
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無意識のエスの反復強迫
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欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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つまりエスの身体とはリアルな身体であり、かつまたその自動反復=反復強迫である。
このエスの身体の自動反復は、ドゥルーズが1960年代後半の仕事で、「強制された運動の機械」と呼んでいるものと等価である。
このエスの身体の反復強迫は、ニーチェの詩的表現ならこうなる。
このエスの身体の自動反復は、ドゥルーズが1960年代後半の仕事で、「強制された運動の機械」と呼んでいるものと等価である。
自動反復=強制された運動の機械
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トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復 automatisme」という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
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『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。
・部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。
(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
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『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第2版 1970年)
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強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
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このエスの身体の反復強迫は、ニーチェの詩的表現ならこうなる。
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
ここで「「イマジネールな身体」と「リアルな身体」」で記したことにも関連づければ、次のようになる。
イマジネールな身体の注釈を掲げておこう。
私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。
忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。
しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)
上図の「上階/地階」とはフロイトラカン語彙群なら、以下の図の左項が上階、右項が地階である。
「真珠/砂粒」とはいっけん奇妙な表現だが、フロイトの比喩であり、真珠が「心的外被 psychische Umkleidung」、砂粒は「リビドー興奮 libidinösen Erregung」のことである。ラカン語彙なら真珠は象徴界(+想像界)、砂粒は現実界である。これは資料としては「真珠と砂粒」にある。
より説明的には、「症状の二重構造」にあるが、そこから一文を抜き出しておこう。
フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。
これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、『性欲論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯)
この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 、2002)
いやもう一つ、ほぼ同じ内容だが、確認の意味で「異物」(異者としての身体)という表現が現れる文も示しておこう。
フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。
フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からに反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
以上、簡潔にいえば、人はみなエスの身体をもっているということである。何を反復強迫しているのか、あなたはどんな強制された運動の機械なのか、これを自ら知ることは困難ではありながら、人にはその多寡はあれ、かならずリアルな無意識の異者としての身体による反復がある。そしてこれを現代主流臨床ラカン派では、ファルス享楽(言語内の享楽)の彼岸にある女性の享楽と呼ぶのであって、けっして生物学的な女性による享楽の話ではない。
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最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
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上に引用したフロイト1926に、「異者としての身体 Fremdkörper=内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenwelt」とあったが、最後にカフカの「異郷 Fremdheit」を引用しておこう、フロイトの「自我の異郷 ichfremde」とまったく同じ意味だとはいうつもりはないが。
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亭主が部屋を出るか出ないかのうちに、フリーダは電燈を消してしまい、台の下のKのわきに身体を置いた。「わたしの恋人! いとしい恋人!Mein Liebling ! Mein süß er Liebling」と、彼女はささやいたが、Kには全然さわらない。恋しさのあまり気が遠くなってしまったように仰向けに寝て、両腕を拡げていた。時間は彼女の幸福な愛の前に無限であり、歌うというよりは溜息をもらすような調子で何か小さな歌をつぶやいていた。
ところが、Kがもの思いにふけりながらじっと静かにしているので、彼女は驚いたように飛び起き、まるで今度は子供のように彼を引っ張り始めた。「さあ、いらっしゃいな、こんな下では息がつまってしまうわ!」
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二人はたがいに抱き合った。小さな身体がKの両腕のなかで燃えていた。二人は一種の失神状態でころげ廻った。Kはそんな状態から脱け出そうとたえず努めるのだが、だめだった。二、三歩の距離をころげて、クラムの部屋のドアにどすんとぶつかり、それから床の上にこぼれたビールと、床を被っているそのほかの汚れもののうちに身体を横たえた。
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そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷 Fremde へきてしまったのだ。この異郷 Fremde では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷 Fremdheit のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。(フランツ・カフカ 『城 DAS SCHLOSS』原田義人訳)
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異郷女のパッションの迷宮からなんとか脱出できて安堵を抱くKの気持ちがよくわかるね、 要するにこのカフカを引用して言いたいことは、女性の享楽は「理論的には」男女どちらにもある欲動のリアルだが、「現実的には」解剖学的女性のほうが解剖学的男性よりもはるかに多く現れるだろうことだな。オマンコとオチンチンの差だよ、言ってしまえば。あるいはもっと穏やかに、男はエスを覆うファルスの鎧が女に比べてぶ厚いと言ってもよい。《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。》(J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987) あくまでここで示しているのは性交に限った話で、エスの身体はそれだけにはまったく限らないことを念押しておかなくてはならないけど。ーー《男は、間違ってひとりの女に出会い rencontre une femme、その女とともにあらゆることが起こる。つまり通常、「性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel 」が起きる。》(ラカン、テレヴィジョン、1973) |
男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。[monsieur couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie.] ……もちろん女がパッションの過剰 excès passionnelsに囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
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谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
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谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)
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性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
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ほとんどの女性の方は感じ取られているだろうように、男はイッたら、エスのリビドー興奮は急速に萎むよ、アッチイッテクレってなるね。ところが女のほうはどうもそうではないらしい。ダロ? いやあ書いているうちにだんだん格調おちてくるな、プルースト引用して格調取り戻しておくさ。
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私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、
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「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」
おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』)
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で、こうなったら男はもはや「天井を見上げる」ほかないよ。
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そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断された。何が起きたのかを見ようとして、かれは眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女なのかどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口をおおきくあけて、天井を見上げていた。(カフカ『審判』)
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そんなことないわ、っていう女の方もイラッシャルのはヨクシッテイマス。
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男において、享楽は限定されています。そして女から受ける印象ではこの享楽は無限に思えますーーこれについては女性から直接聞きだせるというものではありません。なぜなら女性はそのことについてむしろ沈黙を守るほうですから--。(ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ』)
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