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2020年2月24日月曜日

危機の際の政治的決定者の姿

ジジェクは政治的決定のあり方について、こう言っている。


主人のシニフィアンとはなにか? 記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決定の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なものを置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理由にとってもそれに反する二つの理由があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。

理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが主人の決断である。このように、主人の言説は、S2 と S1 のあいだの裂け目、「ふつうの」シニフィアンの連鎖と「法外-理性外のexcessive」主人のシニフィアンとのあいだの裂け目に依拠する。(ジジェク, THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW, 2004)


これは実に正統的観点であり、危機の際はとくにこうでなくてはならない。

S2とは専門知であり、そこに介入するのが主人のシニフィアンS1。





大文字の他者の不在が示すのは、どんな倫理的/道徳的体系も、想像しうる最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし協議することである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )


ーーわたくしのひどく限られた知や情報で言わせてもらえば、日本にはこういう観点を提示する政治学者さえいないように見える。



ところで、橋下徹は政治的決断について、ジジェクとほとんど同じことを言っている。






橋下徹が大きな地方自治体の長として今までやってきた政治的決断の正否をここで問うつもりはない。わたくしには思い出すだけでも不愉快な彼の言説の記憶が三つ四つある。だが政治の長のあるべき姿の指摘としてはとても優れていると思う。

他方、安倍はもとより、野党の長も(わたくしの知る限りで)この機に及んでもウイルス予算を増やせやら等と当たり前のことしか言っておらず、このいま真に何を決断すべきかは言っていない。

他方、橋下徹はこう言っている。





政治家は本来、こういう決断を告知する者だろう。

ここでひとつだけ問題があるようにみえる(初動の遅れの問題はここでは問わない)。政治家が自粛を民間に丸投げした現在、その政府・政治家が自粛解除を言い出しても、おそらく公衆は信用しないだろうということだ。この無責任体制の帰結は、ずるずると長引くのではなかろうか。