このブログを検索

2020年2月23日日曜日

善は悪の仮面



善の背後の享楽
あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務を個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の中立性という観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその背後にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)

父の名は超自我の仮面
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
神は悪である
カントの神は顔がない。ゾッとする? サドは言う、至高の悪の存在。Kant[…] son dieu est sans figure: Grimmigkeit? Sade dit: Etre-supreme-en- Dieu est sans figure : Grimmigkeit? Sade dit : :Ëtte-suprêmeen-méchanceté. (ラカン「カントとサド」E 773、1963年)
ラカンの『カントとサド』(E790)における《至高者は悪行のなかに取り戻される L'Être suprême est restauré dans le Maléfice》。ーーこの意味は「神は悪であるDieu est le Mal」だ。(« DIEU EST LE MAL », Par Trois Questions À Hervé Castanet,2018)
善への過剰なコミットメントはそれ自体、最も大いなる悪になりうる。このリアルな悪とはあらゆる種類の狂信的なドグマティズムである。特に至高善の名の下に行使されるドグマだ。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
善は悪の仮面である
善は根源的・絶対的悪の仮面にすぎない。Good is only the mask of radical, absolute Evil…善の背後には根源的な悪があり、善とは「悪の別名」である。Behind Good, there is radical Evil: Good is "another name for an Evil"

悪は特定の「病因的な」位置をもたない。モノdas Dingが淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱すトラウマ的な異物として機能している限りで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができる。善は、この邪悪なモノに対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれはモノに耐えられる。(ジジェク『斜めから見る』1991年)
至高善の背後のモノ(享楽)
「至高善 Souverain Bien」を基礎づける道徳の法は、モノdas Ding であり、…根源的な問題le problème radical 、悪の問題 le problème du mal である。(ラカン, S7, 16  Décembre  1959~13  Janvier  1960、摘要)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)