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2020年2月25日火曜日

コロナウイルスの五段階



Slavoj Zizek: What the coronavirus & France protests have in common (and is it time for ORGIES yet?), 20 Feb, 2020
エリザベス・キューブラー=ロスは、『死とその過程について』で、人が不死の病となったと知ったときに、どう反応するかという有名な五段階のスキーマを提示した。

①否認:人は事実を受け入れることを拒絶する、「こんなことが起こるはずはない。私に起こるなんて何かの間違いよ」
②怒り:もはや事実が否定できないとき怒りが起こる、「どうして自分がこんなことになるの?」
③取り引き:事実を延期したり軽くしたりしうるという希望、「どうか子供が卒業するのを見させて!」
④抑うつ:リビドーの撤退、「私は死につつある。だから何ものもにも煩わされないわ」
⑤受容:「もう闘えない。死ぬ準備をするわ」
キューブラー=ロスはのちに、悲惨な個人的喪失のどんな形式にもこの諸段階を適用した(無職、愛する人の死、離婚、麻薬中毒等)。そしてまた、必ずしも同じ順番で諸段階が訪れるわけではないこと、すべての患者がすべての五段階を経験するわけでもないことを強調した。

……これはまた人がコロナウイルスの流行をいかに扱うかにも適用できるのではないか。

①第一に否認がある。たいしたことは何も起こっていない。一部の無責任な連中がたんにパニックを広めているだけだ。

②次に怒りがある。ふつうはレイシストや反国家形式をとる。薄汚い中国人に罪がある。われわれの国は手際がよくないと。

③その次は取り引きだ。オーケー、いくらの犠牲者がいる。けれどもSARSみたいには深刻じゃない。われわれは被害を限定しうる。

④これが機能しないなら、抑うつが来る。冗談じゃない。われわれはみな運が尽きた。

⑤だがいかに受容はあるのか? 奇妙な事実がある。このような流行は、最近のフランスや香港でのような社会的抗議と共通点があるのだ。彼らは暴発して尻すぼみにならない。彼らはそこにとどまりただ辛抱強く居つづける。そうやってわれわれの生に永遠の恐怖と儚さをもたらす。

われわれが受容すべきこと、われわれが甘んじるべきことは、生の潜在層があることだ。不死の、愚かしく反復的な、ウイルスの前性器的生。それは常にここにあったし、常にわれわれとともにあり続けてる。われわれのまさに生存を脅かす暗い影として、まったく予期していない時に突然暴発する。

さらにより一般的レベルで言えば、ウイルスの流行は、われわれの生の究極的な偶然性と無意味さを想起させる。われわれが・ヒューマニティが、いかに偉大で神聖な体系を創りあげようとも、ウイルスのような愚かしい自然の偶然性がそれらすべてを終わらせる。…

しかしこの受容は二つの方向を取りうる。一つはたんなるやまいの再標準化。オーケー、人びとは死につつある。だが生は続いてゆく。たぶんいくつかの良い副作用さえあるかもしれない。もう一つの受容は、パニックなしで、イリュージョンなしで、われわれを結集へと駆り立てうる(そしてそうあるべきだ)、集合的連帯の行為を為すために。
(ジジェク 、What the coronavirus & France protests have in common 、2020年2月20日)



ジジェク はひと月前にも次のような記述のある記事を書いている。

一つの事が確かだ。分離、新しい壁、そしてさらなる隔離はするべき仕事ではない。十全の無条件な連帯と世界的に連繋された応答が必要である。それは、かつてコミュニズムと呼ばれたものも新しい形式である。われわれがこの方向に進める努力をしないなら、今日の武漢はおそらくわれわれの未来の街にイメージである。(ジジェク「私の武漢の夢 My Dream of Wuhan22.01.2020)


これを読んだときはついていけなかったのだが、最新の上の記事はいくらかはついていける。だがボクの場合「いくらか」だけだ。日本のたとえばラディカル左翼などとオッシャラレテイル連中はどうなんだろ? 三段階目で止まるからダイジョウブかい? でも近未来には五段階にすすむウイルスが訪れるよ、たぶんね。

何はともあれラディカル左翼だかラディカルデモクラシーだか知らないが、今の日本はそれを考えるのにとってもいい機会だろ? ムッツリスケベか、ムッツリ販促活動か知らないけど、それってアリかい、この機に及んで?

ツイッターってのはこいつはダメなやつかどうかすぐわかっちまうよ、少なくともあれら若い政治学者たちの内的促しはゼロと見たね。ようするに「学者」だな。

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)
知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)