ジジェクが何度も何度も繰り返し引き合いにだすラカンの嫉妬深い夫の話がある。
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ここで、病的に嫉妬深い夫についてラカンが述べたことを思い出してみればよい。彼が自分の嫉妬の根拠として引き合いに出す事実がすべて真実だったとしても、つまり妻が本当に他の男たちと浮気をしていたとしても、彼の嫉妬が病的であり、妄想の産物であるという事実は、それによって微塵も変わらないとした。 …したがって、われわれはユダヤ人差別に対して、「ユダヤ人は本当はそんなんじゃない」と答えるのではなく、「ユダヤ人に対する偏見は実際のユダヤ人とはなんの関係もない。イデオロギー的なユダヤ人像は、われわれ自身のイデオロギー体系の綻びを繕うためのものである」と答えるべきなのである。(ジジェク『暴力』2010年)
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これは昨日、ジジェクの別の文を引用するなかで気づいたが、もともとフロイト起源なんだな。
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ところで、嫉妬妄想をもつ患者や追跡妄想をもつ患者が、内心に認めたくないことがあって、それをほかの他人に投射projizierenするのだと、われわれがいっても、それだけでは彼らの態度を充分には述べてはいないように思われる。
投射することは確かだが、彼らはあてなしに投射するわけではないし、似ても似つかぬもののあるところに投射するのでない。彼らは自分の無意識的知に導かれて、他人の無意識に注意を移行させる。彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。
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われわれの見た嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)
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投射とは、すこし前「よそ者フォビア」をめぐって引用したが、次のようなこと。
投射
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恐怖症(フォビアPhobie)には投射 Projektionの特徴がある。それは、内部にある欲動的危険Triebgefahrを外部にある知覚しうる危険に置き換えるのである。この投射には利点がある。人は、知覚対象からの逃避・回避により、外的危険に対して自身を保護しうる。他方、内部から湧き起こる危険に対しては逃避しようがない。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
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人類はつねに、自然に由来し、遠くにあって理解しがたい原因よりは、「社会的に意味があり、人間が干渉して変更させることができる」原因、言いかえれば犠牲者のほうを好んできたのであった。(ルネ・ジラール『身代りの山羊』)
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よそ者は危険の化身であり、したがって、わたしたちの生活につきまとう不安を代理的に表現しているのである。よそ者の存在は、奇妙に屈折したかたちで、わたしたちの慰めとなり、さらには安心をさえ与えてくれるようになる。つまりは四方に広がり、散らばって、正確に位置を示すことも名付けることも難しい恐怖が、いまや焦点を合わせることのできる、具体的な標的をもつことになる。危険がどこにあるかが分かっているので、もはや不運におとなしく甘んじる必要はない。やっとのことで、自分で打てる手が現れるのである。(ジグムント・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』)
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最も一般的には、内部の興奮を外部に投射すること。 |
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外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を侵略侵入するdurchbrechen ほどの強力な興奮Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。
外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)
刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。
これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)
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たとえば、人はみな、他者への攻撃欲動(他者破壊欲動)が発露しているときは、自らのなかの自己破壊欲動の投射を疑ったほうがいい。
ジジェク に戻れば、次の記述も投射思考のヴァリエーションと捉えうる。 |
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「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」というヘーゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006年)
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(デカルトにとって)外国人の習慣や信念は、彼に滑稽で奇矯に見えた。だがそれは、彼が自問するまでだ、我々の習慣や信念も、彼らに同じように見えるのではないか、と。この逆転の成り行きは、文化相対主義に一般化され得ない。そこで言われていることは、もっと根源的なことだ。すなわち、我々は己れを奇矯だと経験することを学ばなければならない。我々の習慣はひどく風変わりで、根拠のないものだ、ということを。
文化固有の「生活様式」とは、ただたんに、一連の抽象的なーーキリスト教、イスラム教ーーの「価値」で構成されているのではない。そうではなく、日常の振る舞いのぶ厚いネットワークのなかに具現化されている。我々「それ自身」が生活様式だ。それは、我々の第二の特性である。この理由で、直接的「教育」では、それを変えることはできない。何かはるかにラディカルなことが必要なのだ。ブレヒトの「異化」のようなもの、深い実存的経験、我々の慣習や儀式が何と馬鹿げて無意味であり根拠のないものであるかということに、唐突に衝撃を受けるような。…
大切なことは、異人のなかに我々自身を認知することじゃない。我々自身のなかに異人を認めることだ。寛容という言葉が意味をもつなら、そこから始まる。(ジジェク, What our fear of refugees says about Europe, 29 FEBRUARY 2016)
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もう一度フロイトに戻れば、受動性を能動性に移行させるのも投射メカニズムの一環。
容易に観察されるのは(……)心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象[passiv empfangener Eindruck]が小児には能動的な反応を起こす傾向[Tendenz zu einer aktiven Reaktion]を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。
それは、小児に課された外界に対処する仕事[Bewältigungsarbeit an der Außenwelt]の一部であって、…厄介な内容のために起こった印象の反復の試み[Wiederholung solcher Eindrücke bemüht]というところまでも導いてゆくかもしれない。
小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。
医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復wiederholenするのである。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』1931年)
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ヒトラーでさえこの投射メカニズムの落し子だった可能性がある。
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したがってフロイトラカン派においては次のような言い方がなされる。
エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か?それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。
ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)
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人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」)
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ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)
ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)
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たとえば現在の共産党とは資本主義システム自体の致命的亀裂にまったく目を逸らして経済成長を謳う、左翼ポピュリズム政党の衣装を着た「資本党」である(参照)。
経済改革で、国民の所得を増やせば、それが消費につながり、経済を安定的な成長の軌道に乗せることができます。そうすれば、10年程度先には、国・地方あわせて20兆円前後の税収増が見込めます。(日本共産党、財源提案「社会保障・教育の財源は、消費税にたよらずに確保できる」2019年6月)
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他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)
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