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2020年2月21日金曜日

よそ者フォビア

偽善は大事だよ、とくに差別しちゃいけないという偽善は。


人権なんて言っている連中は偽善に決まっている
柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。(……)

日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)



でも今回のコロナウィルスパニックにおいては、欧米でさえもホンネが現れたということが言えるだろうな。

欧米のホンネってのはたとえばこういう現象だ。


アジア人差別も始まった新型肺炎の大パニック
ーーなぜ国籍・民族と感染症を同一視するのか
ロイターは、カナダやタイなどで中国系住民に対する差別や偏見が助長される事態になっていると報道。「ベトナムのダナンでは『あなた方の国が病気を広めたので、われわれは中国からの客へのサービスを提供しない』と英語で張り紙したホテルまで出現し、その後当局から張り紙を撤去するよう命じられた」というエピソードなどを取り上げた(新型肺炎で世界に「反中感情」広がる、入店拒否やネット誹謗も/1月30日付)。

またフランスでは、中国人が街中やソーシャルメディア上で差別的な言葉を浴びせられたと訴える例が続出しているとAFPが報じている。アジア人街で予定されていた春節のパレードが延期されたことに絡み、「外国人嫌悪が入り交じった集団ヒステリーがあり、フランスのアジア系住民に対する差別発言に歯止めがきかなくなっている。まるでアジア系住民全員が保菌者のような言われ方で、近寄るなと言わんばかりだ」という在仏中国人協会の関係者のコメントを紹介した。

実際にアジア系のレジ係の女性が接客を拒否され、「母国に帰れ」と罵られた光景を見た人からの証言も得ているという(「まるでアジア系全員が保菌者扱い」新型肺炎で人種差別相次ぐ、欧州/1月31日付)。つまり、このようなリアクションが世界各国において、中国人だけではなく「アジア系全体」へと波及し始めているのだ。

イタリアでは、有名な国立音楽学校が「東洋人の学生のレッスンを中止する」と発表。差別を懸念する声が上がった。もちろん、この「東洋人」には、中国人とともに韓国人、日本人も含まれている。かつて120年ほど前に「黄禍論」という白色人種による黄色人種に対する脅威論があったわけだが、それがさながら新型肺炎パニックというまったく別の装いで復活したような格好となっている。

なぜ国籍・民族と感染症を同一視する言動に及ぶのか。その深層にはどのような問題が潜んでいるのか。

社会学者のジグムント・バウマンは、今日のグローバル化が進んだ世界において、「わたしたちはみな不安に襲われている」と主張する。

流動的で予測できない世界、すなわち規制緩和が進み、弾力的(フレキシブル)で、競争的で、特有の不確実性をもつ世界に、わたしたちはみなどっぷり浸かっているが、その一方で、わたしたちの一人一人が、私的な問題として、個々の失敗の結果として、自身の臨機応変の才あるいは機敏さへ挑みかかるものとして、己の不安にさいなまれている。(ジグムント・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』奥井智之訳、筑摩書房)

加速度的に変化していくことが強いられる社会環境の下では、「自分の身体や精神」がほかのもの(消費財やコミュニティーなど)よりも「平均余命」があるものに感じられ、「身体の保全」に対する関心が高まると同時に、それらの脅威に対処することが「慰め」になるというのだ。巨大なシステムから生じる「不安の根源」はコントロールできないが、疑わしい「周囲の他者」はコントロールできると考えてしまうのである。

バウマンは、「ここで言う身体とは、そのあらゆる延長や前線の塹壕――家庭、財産、近隣など――を含んでいる」と述べ、「そのように広義の身体の保全に努めるにつけ、わたしたちは、周囲の他者、とりわけそのなかのよそ者、すなわち予想不可能な物事の運搬者にして具現者である人々に対して、ますます疑いの目を向けるようになる」という。

よそ者は危険の化身であり、したがって、わたしたちの生活につきまとう不安を代理的に表現しているのである。よそ者の存在は、奇妙に屈折したかたちで、わたしたちの慰めとなり、さらには安心をさえ与えてくれるようになる。つまりは四方に広がり、散らばって、正確に位置を示すことも名付けることも難しい恐怖が、いまや焦点を合わせることのできる、具体的な標的をもつことになる。危険がどこにあるかが分かっているので、もはや不運におとなしく甘んじる必要はない。やっとのことで、自分で打てる手が現れるのである。(『コミュニティ 安全と自由の戦場』)

バウマンは、「名付けることができない脅威について心配することは難しい」が、「その矛先を安全上の懸念に振り向けること」によって「ありありと目に見えるものになる」という。それが「よそ者の存在」である。

これは、とてもよくまとまった記事だよ。真鍋厚という社会学者はまだ若いみたいだけど、それなりに優秀な人じゃないかな、少なくともツイッターでチャラッチャラやってるナイーブなリベラル系評論家よりはずっとマシだな。もっとも、ボクの知っている範囲でも、ウィーンでのアジア人フォビアは書かれてないけど。

彼は最近の記事でも懐かしのジラールを引用して、上のバウマンを裏付けてるよ。

人類はつねに、自然に由来し、遠くにあって理解しがたい原因よりは、「社会的に意味があり、人間が干渉して変更させることができる」原因、言いかえれば犠牲者のほうを好んできたのであった。(ルネ・ジラール『身代りの山羊』)


でも上で引用されているバウマンやジラールの観点を受け入れるなら、現在、「ほどよく聡明な」インテリたちが、チャイナフォビアやらアジアフォビア、黄禍論という語を使って言いたいらしい内容は、ひどく浅はかな視点でしかないと見なすことができるんじゃないかね。

たとえば逆の状況、どこかの白人国起源の同様なウィルスが蔓延したとしよう。そのとき白人フォビア whitephobia は起こらないだろうか? きっと白人という「よそ者の存在」へのフォビアが起こるよ(もっとも白人国はおおむね移民などで人種混淆率がアジアに比べて格段に高いだろうから、白人フォビアなんて意味ないよという心情はいくらかは湧くのかも)。

重要なのは「よそ者フォビア」というのは、危機の際は、ある程度は避けられないってことだ。

ジグムント・バウマンやジラールの言っている内容は、ほぼフロイトのフォビアの定義通りである。


恐怖症(フォビアPhobie)には投射 Projektionの特徴がある。それは、内部にある欲動的危険Triebgefahrを外部にある知覚しうる危険に置き換えるのである。この投射には利点がある。人は、知覚対象からの逃避・回避により、外的危険に対して自身を保護しうる。他方、内部から湧き起こる危険に対しては逃避しようがない。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

ほぼ、って言ったけど、ほとんどドンピシャだね。

たしかに現在のような状況でも「偽善というタテマエ」は必要だろうな。いやむしろいっそう必要といってもよい。でも一部の「ほどよく聡明な=凡庸な」インテリたちに見られるように、タテマエに固執して、ウィルスという「名付けることができない脅威」におびえてそれをよそ者に投射する人たちを「差別者」として非難したりさらには罵倒したりするだけでは何の改善策にもならないよ。人は未知の内的脅威や不安に遭遇したときほとんど必ず外部にそれを投射するのだから。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を侵略侵入するdurchbrechen ほどの強力な興奮Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)
刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。

これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)


このようなフォビアに代表される機制がほとんど必ず働くものだという原点からはじめる必要があるんじゃないかな。

人間には、タテマエの鎧を脱ぎ去り、裸の人間が顕れるときが必ずあるのをまさか知らないわけではなかろう。ソウダロ? たとえば戦争体験やさらには飢餓体験の記録等を少しでも読んだことがある人なら誰もが知ってる筈だ。だから最低限、この原点に立って冷静さを促すにはどうしたらいいのか、という姿勢をもつのが肝腎だよ。そもそも日本では僅かの検査数にもかかわらず、この今、感染者が倍増してんだから。


新型肺炎「日本で急拡大の瀬戸際」 米衛生当局の元長官 
【ニューヨーク=後藤達也】米食品医薬品局(FDA)の元長官のスコット・ゴットリーブ氏は18日、新型肺炎について「日本は感染急拡大の瀬戸際にあり、大規模流行へと発展するかもしれない」と述べた。仮に中国以外の国で大規模な集団感染が起これば「極めてやっかいな事態で、国際的に制御できなくなる」と警戒感を示した。

米CNBCの番組に出演した。ゴットリーブ氏は日本での感染者数がこの4日ほどでおよそ倍増している点を指摘し、「我々は非常に注意深くみる必要がある」と強調した。ゴットリーブ氏は17~19年にFDA長官を務め、現在はアメリカン・エンタープライズ研究所の研究員を務めている。

ほかにも韓国での新興宗教団体の集会でに信者感染者がこの2月21日突然100人強とかさ。やっぱり集会参加はヤバイんだよ。もっともこう言ってしまったら、会社で働くのはどうなの? 子供たちの学校は? 等々という具合になってしまって、匙加減が重要になるのだけれど。

その意味で、ボクのとってもキライだった橋下徹は、大きな地方自治体の長の経験者として、過度の防衛とは違ってバランス感覚のある冷静なウイルス対応策を提示しているってことだな。あれがベストの選択肢というつもりはないがね。

信憑性のほどは知らないけど、2020年2月19日現在でのコロナ世界データはこうらしい。




こういうのは母集団が不明だから等と言って比較するのを嫌がる人が日本では多いようだけど、知らないよりはマシだね。拡散するのをやめてほしいという人は客商売系の声が大きい人が多いんじゃないかな。

この数字から韓国は今日、100人増えたんだからさ。日本がそうならない可能性ってアリ? ボクの今住んでる国は、北部だけじゃなく南部の小中学校まで、3月まで休みにしたらしいよ。1700キロ離れた北部に感染者が「公式には」十何人いて南部の情報は見えてこないのだけれど。





ま、ほどよく怖がることだな。それしかないね。

仮に自分のことはどうでもよいと意地をはっても、子供がいたり、愛するひとがいたりすればいっそうそうなるね。