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2020年3月4日水曜日

なんだ、惚れたことあるのか

なんだ、惚れたことあるのか、これはシツレイ!

で、やっぱりパックリやりたくなったのかい?

女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)


ひょっとして神さまだってパックリやりたいんじゃないかね、アーメン、ザーメンとか連発してさ。


メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、母なる鰐の口 boucheのあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverteとして提示した。(J.A. Miller, LA LOGIQUE DE LA CURE DU PETIT HANS SELON LACAN, 2008)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)