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2020年3月4日水曜日

構造的パックリ女


男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。
Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『新精神分析入門講義』1933年)

………

前回の記述をいくらか補足しよう。

発達段階的女性の愛の展開は、男に比べて複雑さがある。


女性における原愛の対象「母」から「父」への移行
男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。

女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)

ーー標準的にはこうであり、もちろん例外はあるだろう。

いまはこの標準に則って記述する。

「母」から「父」への移行は、基本的には「母との同一化」によって為される。

母との同一化
母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」、1933年)


①の同一化は男児にもある。だが②の同一化は女児と男性の同性愛者の特徴。

女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)
男性の同性愛者の場合、…母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。子供は自分自身を母の位置に置き、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデル Vorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自己愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代替 Ersatzpersonen であり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象 Liebesobjekte をナルシシズムの道 Wege des Narzißmus の途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソス Narzissus と呼んでいる。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

女性と男性の同性愛者ってのは、心理的に気が合うはずだよ、どっちも構造的ナルシシストだからな

男性の同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。(フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


で、フロイトの考えでは、女性の対象選択は次の二形式が基本。

女性の対象選択Objektwahlの決定因は、しばしば気づかれない形で社会的条件によって為される。選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想 narzißtischen Ideal にしたがって対象選択がなされる。もし彼女が父への愛着Vaterbindungに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプ Vatertypus に則る。(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

だいたいはこの二種類だな、ボクの観察する範囲では、例外を見出すのは難しかったね。これ以外にもちろん息子タイプというのはあるだろうけど、これもナルシシズムの変種。

精神分析のエビデンスが示しているのは、ある期間持続して二人の人間のあいだにむすばれる親密な感情関係ーー結婚、友情、親子関係ーーのほとんどすべては、拒絶し敵対する感情のしこりを含んでいる。それが気づかれないのは、ただ抑圧されているからである。

おそらく唯一の例外は、母と息子の関係 Beziehung der Mutter zum Sohn である。これはナルシシズムに基づいており、後年の(娘との)ライバル意識によっても損なわれことなく、性的目標選択のアプローチによって強固なものになる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)



女性の母との同一化の話に戻れば、ラカン的には「全能の原大他者との同一化」、あるいは「ファリックマザーとの同一化」と表現される。

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957)
母子関係 relation de l'enfant à la mère…ファリックマザーへの固着された二者関係 relation duelle comme fixée à la mère phallique (S4, 03 Avril 1957)
(その後)ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phalliqueがある(S4, 06 Février 1957)


前回示した女のパックリ母との同一化の話はこの文脈のなかにある。ここではひとつだけ再掲しよう。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)


以上、女の愛の発達段階的形態は次のように図示できる(男は単純だから、つまり母から代理女への移行のみだから割愛)。





男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)



以上、フロイトラカンは基本的にはこのように考えたということであり、変種はあるだろう。だが安易に例外をいうのは禁物。男女の愛を考える上で、フロイトラカン的には出発点はここにしかない。





上図の上段底部にある原ナルシシズムについては、やや難解なのでここでは割愛したが、とはいえフロイトラカンの思考の核心➡︎「すべての愛の関係の原型」