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2020年3月5日木曜日

反アベ主義者のくさい息

また騒いでるんだな、あのデモクラシー信者、あの反アベ主義者の賤民たちが。



権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに群衆Pöbelの値が騰貴してくる。そしてついには群衆の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー。

Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」) 
あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、[allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem」…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民 Gesindel のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気![Ach, Ekel! Ekel! Ekel! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」)


ま、事例研究の対象としてはとても興味深いのを認めるのに吝かではないが。

集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。
この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)
(自我が同一化する際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして共感は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。

…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れIntrojektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきGefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)

バカ丸出しなことに気がつかないんだよな、あの連中は。ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息!



そもそも危機において決断する者はほとんど常にヒトラー的である、というのは政治的基礎教養の一つじゃなかったのかね。

ブルジョア的民主主義においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされる。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ポナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。

絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。

たとえば、シュミットが評価するホップスについて考えてみよう。ホップスは主権者を説明するために、万人が一人の者(レヴァイアサン)に自然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じである。ホップスはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形態 Ⅲにいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与えられるが、これは、商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことごとく一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである》(『資本論』第一巻第一篇第三節C)。すなわち、ホップスは国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初に見いだした。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.417-418)
マルクスは宗教を啓蒙的に批判した知識人たちに対して、宗教を必要とする「現実」があること、それを解消しないかぎり、宗教を解消することはできないと述べた。同様に、知識人がどう軽侮しようと、ネーションもそれを必要とする「現実」があるのだといわねばならない。そして、それは貨幣による商品交換とは異なった互酬的な「交換」関係に根ざしている。したがって、貨幣と同様に、ネーションはたんなる幻想ではない。超越論的な仮象であるといってよい。(柄谷行人『トランスクリティーク』 p.426)