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2020年3月26日木曜日

隣人愛は悪を保護する


◼️汝の隣人を汝自身のように愛せ

文化社会の側から提出されるいわゆる理想的要求[Idealforderungen]の一つ…。その要求とは、「汝の隣人を汝自身のように愛せ[Du sollst den Nächsten lieben wie dich selbst]」である。誰でも知っているこの要求が、自分たちにとって最も誇り高い要求[stolzesten Anspruch] だとしてこれを掲げているキリスト教よりも古いことは確かだが、非常に古いものでないこともまた確実である。歴史時代に入っても、人類はまだこんな要求を知らなかった。


われわれはいま、素朴な態度で、はじめてそれを耳にするような気持でこの要求に耳を傾けてみよう。するとわれわれは、意外と怪訝の念を押えることができない。


◼️なぜそんなことをしなければならないのか

なぜそんなことをしなければならないのか。そんなことをして何の役に立つというのか。それに第一、そんなことがどうしてできようか。そんなことはできようはずがないではないか。私の愛は私の貴重な財産なのだから、充分な理由もなしに大盤振舞いするととなどは許されない。愛が課してくる義務を果たすためには、犠牲も厭わないだけの心の用意が必要である。私が誰か他人を愛するとすれば、その他人はなんらかの意味で私の愛に値しなければならない。


Warum sollen wir das? Was soll es uns helfen? Vor allem aber, wie bringen wir das zustande? Wie wird es uns möglich? Meine Liebe ist etwas mir Wertvolles, das ich nicht ohne Rechenschaft verwerfen darf. Sie legt mir Pflichten auf, die ich mit Opfern zu erfüllen bereit sein muß. Wenn ich einen anderen liebe, muß er es auf irgendeine Art verdienen. 


(この場合私は、その他人が私にもたらしてくれるかもしれない利益も、また、その他人が私にとっては性愛の対象としてあるいは持つかもしれない意味もともに度外視する。これら二つの原因によって生まれる人間関係は、この隣人愛[Nächstenliebe]の命令の場合には問題になりえないからだ)。

たとえば、重要な点で私にとてもよく似ているため、その他人を愛することは自己自身を愛すること[selbst lieben]になる場合とか、私よりはるかに完全な人間であるため、この他人を愛することはすなわち私の理想[mein Ideal]を愛することになるような場合、この他人は私の愛に値するといえる。また、その他人が私の友人の息子であれば、私はこの他人を愛さなければならない。なぜなら、その息子がなにかの災難に会ったような場合には、その友人の悲しみは私自身の悲しみであり、私はその悲しみを共にしなければならないだろうから。けれども、その他人が私と縁もゆかりもない人間で、その人自身の価値や私の情動生活[Gefühlsleben]にたいしてすでに持っている意味などによって私を惹きつけることができないとすれば、その人間を愛することは私にとって困難になる。


◼️そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる

それどころか、そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちだけの持物だと思っているのだから。私がその他人をこれら家族の者たちと同列に置けば、私は自分の家族を不当に扱うことになる。けれどもその他人も昆虫・みみず・がらがら蛇などと同じくこの地上の生物であるというだけの理由でどうしてもその他人を愛さなければならないとすれば、この他人に振り向けられる私の愛はごく微量だ。理性の判断にしたがうかぎり、私も私自身のために自分の愛の一定量を取っておく権利があるが、それだけの量の愛をこの赤の他人に振り向けることはとうていできない。では、理性もその実行を推奨しえないような命令が、かくも仰々しく喧伝されるのはいったい何のためだろうか。


Ich tue sogar unrecht damit, denn meine Liebe wird von all den Meinen als Bevorzugung geschätzt; es ist ein Unrecht an ihnen, wenn ich den Fremden ihnen gleichstelle. Wenn ich ihn aber lieben soll, mit jener Weltliebe, bloß weil er auch ein Wesen dieser Erde ist, wie das Insekt, der Regenwurm, die Ringelnatter, dann wird, fürchte ich, ein geringer Betrag Liebe auf ihn entfallen, unmöglich so viel, als ich nach dem Urteil der Vernunft berechtigt bin, für mich selbst zurückzubehalten. Wozu eine so feierlich auftretende Vorschrift, wenn ihre Erfüllung sich nicht als vernünftig empfehlen kann? 


◼️不合理ゆえに我信じる[Credo quia absurdum]

もっと詳しく調べると、困難はいっそう増大する。この他人は、ただたんに一般的に私の愛に値しないというばかりでなく、正直のところ、私の敵意[meine Feindseligkeit]、さらに私の憎悪[meinen Haß]となる資格があるのだ。この他人は、私にたいして一片の愛情も持ち合わせないように見え、私のことを寸毫も顧慮してはくれない。自分の利益になると知ったら、躊躇なく私に損害を与えるし、そのさい自分の受ける利益が自分が私に加える損害の大きさに比例するかどうかさえ問題にしない。いや、それどころではない。そうすることで自分が利益を受けなくてもさしつかえないのだ。そうすることによってなんらかの自分の享楽[Lust] をみたすことができさえすれば、この他人は、平気で私を嘲笑し、侮辱し、中傷し、私を種にして自分の力を誇示するのだ。そして、自分の立場の安全を認識すればするほど、また、私の立場が無力であればあるほど、その他人が私にたいしてこうした態度に出るだろうことはますます確実になる。

もしこの他人が、これとは違った態度をとり、縁もゆかりもない私に顧慮を払い、私をいたわってくれるならば、当然私は、こんな命令などなくとも、同様の態度をもってこれに報いるだろう。まったくの話、あのご結構な命令が「汝の隣人が汝を愛するのと同じように汝の隣人を愛せ [Liebe deinen Nächsten, wie dein Nächster dich liebt]」といっていたら、私はなんの異議もさしはさまないだろう。ところが、もっと不可解に思え、もっと激しい抵抗を感じさせる第二の命令がある。それは、「汝の敵を愛せ Liebe deine Feinde」というのだ。しかしよく考えてみると、このほうがもっと不当な要求だといって退けるのは当たらない。なぜなら、これら二つの要求は、根本においては同じことをいっているのだから。

ところがここで、威厳にみちた一つの声が次のように警告する。「隣人が汝の愛に値せず、むしろ汝の敵であればこそ、汝はこの隣人を汝自身のように愛すべきなのだ [Eben darum, weil der Nächste nicht liebenswert und eher dein Feind ist, sollst du ihn lieben wie dich selbst]」と。これでわかった。つまり例のあの「不合理ゆえに我信じる[Credo quia absurdum]」に同様の事例なのだ。


◼️隣人愛は露骨に悪を保護する結果を生む

ところで、もしこの隣人が、自分自身を愛するのと同じように私を愛するよう要求されたら、先の私とまったく同様の返事をし、私と同一の理由で私を退けるだろうことはまず確実である。私としては、その場合の隣人には私ほど客観的根拠はないと主張したいところだが、その点は隣人も同様に考えることだろう。それはともかくとして、人間の行動には種別があり、倫理はこれを、原因の如何は問わず、「善」と「悪」に区分している。こういう区別が明らかに存在している限り、先に述べた高尚な倫理的要求にしたがうことは、露骨に悪を保護する結果を生み、もろもろの文化目的をぶちこわすものといわねばならない [bedeutet die Befolgung der hohen ethischen Forderungen eine Schädigung der Kulturabsichten, indem sie direkte Prämien für das Bösesein aufstellt]。ここで想起せざるをえないのは、フランス議会で死刑についての論議がかわされた時に起こったある事件である。某議員が「死刑は廃止すべし」と熱弁をふるって嵐のような喝栄を博していたが、そのとき議場から、「じゃあ、暗殺者に暗殺をおっぱじめてもらうがいい」という野次が飛んだのだ。


◼️人間は人間にとって狼である[Homo homini lupus]

これらすべての背後にあってとかく否定されがちな一片の真実を取り出してみれば、人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛性向が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動[Triebbegabungen]にはずいぶん多量の攻撃性向[Aggressionsneigung」も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃性[seine Aggression] を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でも あるのだ。「人間は人間にとって狼である[Homo homini lupus]」といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。


通例この残忍な攻撃性[grausame Aggression]は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃性は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人―― の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件まで を想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。


◼️欲動的情動は理性的打算より強力

自分自身の心の中にも感ぜられ、他人も自分と同じく持っていると前提してさしつかえないこの攻撃性向[Aggressionsneigung]の存在こそは、われわれと隣人の関係を阻害し、文化に大きな厄介をかける張本人だ。そもそもの初めから人間の心に巣喰っているこの人間相互の敵意のために、文化社会は不断に崩壊の危険に曝されている。欲動的情動[triebhafte Leidenschaften] は理性的打算[vernünftige Interessen]より強力だから、労働共同体の利害などを持ち出しても、文化社会を繋ぎとめておくことはできないだろう。人間の攻撃欲動[Aggressionstrieben」を規制し、その発現を心理的反動形成によって抑止するためには、文化はその総力を結集する必要がある。さればこそ文化は、人間を同一化や本来の目的を制止された愛の結びつき[Liebesbeziehungen]へと駆り立てるためのさまざまな方法を動員し、性生活に制限を加え、「隣人を自分自身のように愛せ」などという、本来をいえば人間の本性にこれほど背くものはないということを唯一の存在理由にしているあの理想的命令を持ち出すのだ。


しかし、必死の努力にもかかわらず、これまでのところ文化は、この点大した成果はあげていない。犯罪人を力で抑える権利を自分にあたえることによって文化は、血なまぐさい暴力が極端に横行することは防ぐととができると考えている。けれども、人間の攻撃性がもっと巧妙隠徹な形であらわれると、もはや法律の網にはひっかからない。われわれはすべて、若いころの自分が他人に託した期待を錯覚[Illusionen ]だったとして捨て去る日を一度は経験し、他人の悪意のおかげでいかに自分の人生が厄介で苦しいものになるかを痛感するはずである。そのさいわれわれは、争いと競争を人間の活動分野から締め出そうとするからといって文化を責めることはできないだろう。争いと競争はもとより不可欠である。けれども、対立はかならずしも敵対関係[Gegnerschaft]を意味する必要はなく、ただ敵対関係を作りだすためのきっかけに悪用されているにすぎない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)



◼️愛の宗教=他人に対する容赦ない敵意の衝動

教会、つまり信者の共同体…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)






すべて愛と呼ばれるもの 

所有欲(貪欲)と愛 Habsucht und Liebe、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じを我々にあたえることだろう! ―だがしかしそれらは同一の衝動 Trieb なのによびかたが二様になっているのかもしれぬ。つまり一方のは、すでに所有している者ーーこの衝動がどうやら鎮まって今や自分の「所有物 Habe」が気がかりになっている者ーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが「善」として賛美された呼び名であるかもしれない。我々の隣人愛ーーそれは新しい所有権への衝迫 Drang nach neuem Eigenthum ではないか? 知への愛、真理への愛 Liebe zum Wissen, zur Wahrheit も、同様そうでないのか? およそ目新しいものごとへのあの衝迫 Drang の一切が、そうでないのか? ……


我々は古いもの、安全に所有しているものにしだいに退屈し、ふたたび手を伸ばすようになる。最も美しい風景でさえも三カ月住めば、もはや我々の愛を確保しない。そして遠くの海辺が所有欲を刺激するselbst die schönste Landschaft, in der wir drei Monate leben, ist unserer Liebe nicht mehr gewiss, und irgend eine fernere Küste reizt unsere Habsucht an。所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなるのである der Besitz wird durch das Besitzen zumeist geringer。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものをわれわれ自身のなかへ取り入れ、変化させることによって維持しようとする。所有するとは、まさにそういうことだ。


所有への衝迫 Drang nach Eigenthum としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛 Liebe der Geschlechter である。愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。…


われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛 Geschlechtsliebe のこういう荒々しい所有欲(貪欲)Habsucht と不正 Ungerechtigkeitが、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である。…


だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継続 Fortsetzung der Liebe がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求 habsüchtige Verlange がある新しい熱望と所有欲 neuen Begierde und Habsuchtに、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望 höheren Durste に道をゆずる、といった風の愛の継続である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情Freundschaftである。(ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)




自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)

ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである。Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott.(ニーチェ『善悪の彼岸』第67番、1886年)

愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、迷妄の力がそこでは絶頂に達する。Die Liebe ist der Zustand, wo der Mensch die Dinge am meisten so sieht, wie sie nicht sind. Die illusorische Kraft ist da auf ihrer Höhe, (ニーチェ『反キリスト者』第23節、1888年





◼️愛の喜劇

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse]を自分の愛の対象[Liebesobjekten]から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー 理論[Libidotheorie]の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給[Libidobesetzungen]を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。


W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているということである[que nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle  la libido]。〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。


愛の形而上学の倫理[Moralité de cette métaphysique de l'amour]… ……愛の条件 [Liebesbedingung]の本源的要素……私が愛するもの……愛の彼岸にある残滓[reste au-delà de l'amour]としての何ものか、ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない [Je n'aime que mon corps]》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである[même quand cet amour,  je le transfère sur le corps de l'autre] (ラカン, S9, 21 Février 1962)