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2020年3月26日木曜日

感染症医師の「えらっそう度」


病人という意識は何であろうか。それは一つのカーストの人間だということであろう。そこにすべり入ると病人の誰彼が急に仲間扱いしてくれる。地下世界の住人同士のようである。一方、ナースがとても美人にみえるし、医師はとてもえらくみえる。卒業して二、三年の医師でも大先生にみえる。(中井久夫「私の入院」1983年『記憶の肖像』所収)


ーーだな、とっても「えらっそう」なヤツが多いね、このところのコロナ騒ぎで医師たちのツイートをそれなりに眺めたんだが。大学卒業したらおおむねすぐさま「先生」と呼ばれる職業だからな。人格が歪むのは職業病としてやむえないとはいえ、若い医師のなかにはすぐさま殴ってやりたくなるような連中がいるよ。

とはいえ日本のなかでも地域によってあまり「えらっそう」でない医師がいるらしい。

神戸にきて、思ったのはまず、そうですねえ、医者があまり偉くないっていうことですね。これでも結構偉そうなのかもしれませんが、比較的偉そうにしてないと思います(この病院でも他の科では働いたことがありませんからわかりませんけれども)。精神科では医者が"偉い"ところほど患者が追い詰められた感じを持ちがちですね。だから医療訴訟がものすごく意地になって激しいところっていうのは、医者の社会的地位が偉いか、態度として威張っているか、システムとして医者が非常に偉い位置にいるところですね。(中井久夫「危機と事故の管理」1993年『精神科医がものを書くとき』所収)
私が神戸大学に赴任してしばらくは、どういう原理で入退院が行われているか、わからなかった。回診をすると入院したばかりの患者が外泊している。まだ退院できそうめないと思っていた患者が退院している。私は東京時代の土居健郎先生の教えどおりに、「患者の病理の構造が分かっていないのに外泊させるのはどうけじめがないのではないか」というようなことをぶつぶつつぶやいた。すると「患者との約束ですから」という答えである。「そういう約束で入院させたのですからまらなければなりません」という。私はびっくりした。そういう発想ははじめてだったからである。私もマイルド・バターナリズム(慈父主義)に染まっていたからだろう。(中井久夫「神戸の精神医療の初体験」1983年『記憶の肖像』所収)

ーーこう言われると、神戸の医師と東京や名古屋の医師はえらっそう度がだいぶ異なるのかもしれないよ。

センセたちのツイートをいくつか掲げようと思ったが、ま、おとなげないことはやめておき、かわりにこう引用しとくさ。

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト『見出されたとき』)


ーー感染症医師のみなさん、ボクに観察するシアワセを与えてくださりトッテモアリガトウゴザイマス!

ところで「えらっそう」というのは、そのまま直接にえらっそうではなく、「親切に」無知な民衆を導くオハナシを連発しているセンセたちももちろん含めなければならない。いくらニブイ系の人でもこの程度の鼻はきかさないとな。


ああ、東京やら東北やらの感染症専門医師のあのマイルド・バターナリズム(慈父主義)言説! きみたちよく耐えられるな、ボクは鼻をつまみながら読むほかなかったね。世間には慈悲ぶかいオットサンが好きな人もいまだたくさんいるんだなと考え込んじゃったよ。

そもそもーー次の指摘は25年前のものだがーー、医学界のボスには次のようなタイプもいまだウジャウジャいるようにみえるね。ああ、えらっそうウイルス蔓延の医学界!

一般に、医学系出版社は、ボスだけを握っていれば、そちらからの原稿依頼で、皆かしこまって書くと思っているふしがある。ある編集会議に出た時のことを思い出す。編集委員が集まったところで、編集者が挨拶をして、では夕食を用意させたありますから召し上がって後はよろしきと言って退席し、編集者抜きで会議が始まった。私は失礼なと思ったが、これは編集者は口を挟みませんという、医学界ではしかあるべき態度と受け取られていた。こういうふうであるから、医学書は悪文に満ち、金ぴかの俗悪な装丁の本が多いのであろう。

ほんとうかどうか、医学界のボスには、誤字訂正をしても激怒するのがあるそうで、こういう手合いを相手にしていると、編集者もたまらないであろう。私も面白くないので、医学系出版界とは積極的に関係を持たない方針である。幸い精神医学だけの出版社が別個にある。これには、精神医学の本は専門家以外にも販路があるという事情もあるだろうが、著者 -編集者関係の違いも大いに手伝ってのことだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』 1995年)