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2020年3月26日木曜日

それ古いよ、バカのひとつ覚えだな


精神病は厳密さの試みである。この意味で、私は精神病者だと言いうる。私が精神病者なのは、唯一、常に厳密さを試みてきたからだ。La psychose est un essai de rigueur. En ce sens, je dirais que je suis psychotique. Je suis psychotique pour la seule raison que j’ai toujours essayée d’être rigoureux. (ラカン 、Universités nord-américaines.1975, « Yale University, Kanzer Seminar ».)

ここでの「厳密性の試み essai de rigueur」 とは、大他者を信じないで、厳密に論理的に世界を再構成しようとする自らの性向を言おうとしている(人は大他者を信じれば、かならずイデオロギー的になってしまい厳密さを失う)。

だが2年後にはこうも言っている。

私がもっと精神病だったら、おそらくもっとよい分析家になれたのだが。Si j'étais plus psychotique, je serais probablement meilleur analyste.(ラカン 、Ouverture section clinique 、1977)


これはラカン自身、なにかに囚われていることを言っているとみてよいだろう。

私は相対的には愚か débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に愚かだな。というのは、たぶん、いささか啓蒙petite lumière されているから。(ラカン、S.24,17 Mai 1977)



ニーチェはこの点ではラカンよりずっと先行している。文法は神ではないか、と問うているのだから。

言語のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」5『偶像の黄昏』1888年)


あるいは「論理学は存在しない」と捉えうることさえ1878年に言っている


………

ラカンマテームの読み方」より再掲。


父の名の排除=S2の排除
父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)
精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)

今でも日本ラカン派のなかには、父の名の排除が精神病の原因だと「バカのひとつ覚え」のように言っている人がいる。ーーいや、それではシツレイである。仏臨床主流ラカン派でもようやくごく最近認知されてきた話だから。

精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰現前
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)


ここでミレール の言っている父の名とはS1のことであり、父の隠喩S1-S2によって飼い慣らされる以前には、S1の過剰現前があるというのは、次の図が示している。



いくらかの注釈を加えればこうである。


このS1=サントーム Σ=S(Ⱥとは、別名「母の名 le nom de la Mèreもある。すくなくとも最初のS1は。

核心はS(Ⱥ) である。「大他者は存在しない」以外に、少なくとも次の意味合いを持っている。




S(Ⱥ) とは要するに穴Ⱥのシニフィアン(穴の境界表象)である。


フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)
人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généraliséeを追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…

もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)