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2020年3月1日日曜日

享楽はダナイデスの樽


すでに何度もくり返したが、何よりもまず享楽は「自体性愛」のことである。そもそもフロイトのAutoerotismusの邦訳「自体性愛」とは「自己身体エロス」としたほうがいい。そうすれば享楽=自己身体の享楽=自己身体エロスとなり、享楽がエロスであることがはっきりする。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

だが自体性愛を文字通りとってはならない。自体性愛の対象は、喪われた対象である。

われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞creux・空虚videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)

究極の喪われた対象は、胎盤つまり母胎であり、母胎の周りを循環運動するのが、自体性愛=享楽である。

例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondをシンボライズする。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
胎児は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母ではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この喪われた対象としての母胎は、享楽の対象とも呼ばれる。

享楽の対象 Objet de jouissance は…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

だがなぜ喪われた対象へのエロスが自体性愛なんだろう? 普通は不思議に思う筈である。

それを解く鍵は次の文にある。

フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…が、自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. 

…ヘテロhétéro、すなわち「異物的(異者的 étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

自己身体とは実は、異者身体なのである。

われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

この異者身体とは、胎児期あるいは乳幼児期に自分の身体だと思っていた「母なる身体」である。それが去勢によって分離されてしまう(より詳しくは「すべての愛の関係の原型」を見よ)。

したがって最後のラカンは「享楽は去勢」だと言う。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

ミレールで補えば次の通り。

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
享楽における場のエロス[ l'érotique de l'espace dans la jouissance]。この場を通してラカンは、彼がモノ[la Chose]と呼ぶものに接近し位置付けた。私が外密[extimité]を強調したとき、モノの固有な空間的場[la position spatiale particulière de la Chose]を描写した。モノとは場のエロス[l'érotique de l'espace]に属する用語である。…

疑いもなくこのモノはナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理である。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・自己身体のエロスérotique de soi-même に取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢と呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

ーーこの文で、冒頭に記した、享楽=自体性愛=自己身体エロス=自己身体の享楽がはっきりするするだろう。

さらに去勢についてフロイトを引用して補っておこう。

去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration (原去勢)であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

要するに原去勢とは、出産外傷による母からの分離である。そしてこの喪われた母なる身体を取り戻そうとする運動が、究極の享楽=自体性愛であり、母胎回帰=享楽回帰である。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』第5章、死後出版1940年)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

この運動は究極のエロス運動でありながら、回帰してしまったら母なる大地への帰還であり、死である。つまり究極のエロス=究極の享楽=死である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



したがって生きている存在は、永遠に喪われた対象の周りを循環運動するより他ない。

享楽はダナイデスの樽である。la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » (ラカン, S17, 11 Février 1970)

ーーダナイデス、すなわち底のない樽を永遠に満たすように罰せられたダナオスの娘たちである。人はみな、男も女もこれを繰り返す人生を送っているはずである。たとえばオメコの穴を汗水垂らしてせっせと埋めようとしても、真の享楽は訪れない。




享楽はダナイデスの樽とは、享楽は穴と言ってもよい、➡︎「なんでも穴である

別の形の、より分かりやすい言い方ならこうである。

享楽それ自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味するから。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。

Jouissance as such is impossible for the living subject, as it implies its own death. The only possibility left is to take a roundabout route, repeating it in order to postpone as long as possible one's arrival at the destination. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


以上、この記事は前記事「不気味なオメコ」の補足としてある。