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2020年3月2日月曜日

科学におけるモノの否定

コロナウイルス程度のーー敢えて「程度の」と言っておくよ--未知なものぐらいは、徴示化する、つまり言語化・象徴化する努力を最大限に払ったらいいんだけど、この機に及んでの、科学者たちや凡庸なインテリたちの全面的な科学信奉言説ってのはどうしたって馬鹿にしたくなるね。

だいたい WHO のマスク不要説をマガオで受け取って世論形成しようとしているヤツって、頭のなかの具合を覗いてみたくなるよ。




このWHOの職員の写真自体、笑いのネタになっているようだが、連中の言うことをマガオで受け止め、こんな図を流通させている医師グループさえいる。



単純なバカじゃないかな、「何もいらない」なんてのみ強調して世論形成しようとする連中って。マスク不足のコントロール意図を示さないままで。

たとえば韓国の対策中枢部のマスク組は、まったくまちがっているってわけかい?






科学におけるモノの否定
科学が基盤としているのは、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定である。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。すなわちモノの蜃気楼は、われわれの知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan, 2013)

モノ das Ding
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )



少なくも、ウイルスにはモノの相、つまり現実界の相があるとまずは見なしたほうがいいんじゃないかね。

ウイルスというモノ
われわれが受容すべきこと、われわれが甘んじるべきことは、生の潜在層(モノ)があることだ。不死の、愚かしく反復的な、ウイルスの前性器的生。それは常にここにあったし、常にわれわれとともにあり続けてる。われわれのまさに生存を脅かす暗い影として、まったく予期していない時に突然暴発する。

さらにより一般的レベルで言えば、ウイルスの流行は、われわれの生の究極的な偶然性と無意味さを想起させる。われわれが・ヒューマニティが、いかに偉大で神聖な体系を創りあげようとも、ウイルスのような愚かしい自然の偶然性がそれらすべてを終わらせる。…

しかしこの受容は二つの方向を取りうる。一つはたんなるやまいの再標準化。オーケー、人びとは死につつある。だが生は続いてゆく。たぶんいくつかの良い副作用さえあるかもしれない。もう一つの受容は、パニックなしで、イリュージョンなしで、われわれを結集へと駆り立てうる(そしてそうあるべきだ)、集合的連帯の行為を為すために。
(ジジェク 、What the coronavirus & France protests have in common 、2020年2月20日)


ーーもっともジジェクのよう一般には極論と見なされるだろう言説を受けいれなくてもいいさ。でもヘボ科学者たちの世論形成言説を馬鹿にするぐらいの「知」や「心意気」ぐらいはもっていないとな。ことさらそれが必要だよ、21世紀というおバカなエビデンス至上主義の時代には。

ここで挿入的に中井久夫を引用しておこう。危機対応の現場には常にこれがあるんじゃないかと疑わなくちゃいけない。


◼️中井久夫「危機と事故の管理」より(『精神科医がものを書くとき』所収)

覚醒度の異常向上による大きな穴
事故が続けて起こるのはどういうことかについては、飛行機の場合はずいぶん研究されてるようで、私はその全部を知ってるわけではありませんが、まずこういうことがあるそうです。

一つの事故が起こると、その組織全体が異常な緊張状態に置かれます。異常な緊張状態に置かれるとその成員が絶対にミスをしまいと、覚醒度を上げていくわけです。覚醒度が通常以上に上がると、よく注意している状態を通り過ぎてしまって、あることには非常に注意を向けているけれど、隣にはポカッと大きな穴が開くというふうになりがちです。

集中型注意による柔軟性喪失
注意には大きく分けて二つの種類があって、集中型(concentrated)の注意と、全方向型(scanning)の注意があるわけですけれども、注意を高めろと周りから圧力がかかりますと、あるいは本人の内部でもそうしようと思いますと、集中型の注意でもって360度すべてを走査しようとしますが、そういうことは不可能でありますし、集中型の注意というのは、焦点が当たっているところ以外には手抜きのあるものですから、注意のむらが起こるということです。

注意の性質からこういうことがいえます。最初の事故の後、一般的な不安というものを背景にして覚醒度が上がります。また不安はものの考え方を硬直的にします。ですから各人が自分の守備範囲だけは守ろうとして、柔軟な、お互いに重なりあうような注意をしなくなります。各人が孤立してゆくわけです。

世論によって原因だとされたものだけへの注意の集中と他のものへの不注意
また、最初の事故の原因とされるものが、事故の直後にできあがります。一種の「世論」としてです。人間というのは原因がはっきりしないものについては非常に不安になります。だから明確な原因がいわば神話のように作られる。例えば今ここで、大きな爆発音がしますと、みんなたぶん総立ちになってどこだということと、何が起こったんだということを必死に言い合うと思います。そして誰か外から落ち着いた声で、「いや、今、ひとつドラム缶が爆発したんだけれど、誰も死にませんでした」というと、この場の緊張はすっとほぐれて私はまた話を続けていくと思います。たとえその原因なるものが見当違いであっても暫くは通用するんですね。そして、原因だとされたものだけに注意が集中して、他のものへは注意が行かなくなります。

以上のように、それぞれ絡み合って全体として次の事故を起こりにくくするような働きが全然なくなる結果、次の事故に対して無防備になるのでしょう。


で、次のようにならないことを祈るよ、あれら木瓜の花的医師集団が。


士気の萎縮
demoralization――士気の萎縮――というのは経験した人間でないとわからないような急変です。これを何に例えたらいいでしょうか? そうですね、こどもが石合戦をしているとします。負けてるほうも及ばずながらしきりに石を放っているんですが、ある程度以上負けますと急に頭を抱えて座り込んで相手のなすがままに身を委ねてしまう。これが士気の崩壊だろうとおもいます。つまり気持ちが萎縮して次に何が起こるかわからないという不吉な予感のもとで、身動きできなくなってくるということですね。(中井久夫「危機と事故の管理」1993年)

…………

たぶん一般には悪評高いのかもしれない、この一年でコロナウイルスは世界の40~70%が感染するかもという最悪のシナリオを提示したハーバード大学のマーク・リプシッチMarc Lipsitchは、最近のインタビューで、「わからない」、「理解できてない」と連発しているが、これこそあるべき謙虚な態度じゃないだろうか。




A big coronavirus mystery: What about the children?
BY Alvin Powell Harvard Staff Writer February 27, 2020
Q&A  Marc Lipsitch
GAZETTE: For the first time, the number of new cases outside of China was higher than those inside of China. Is that due to the daily fluctuation in case numbers or might it represent an inflection point in the course of the epidemic?

LIPSITCH: I don’t know. I would want to see something happening for several days before characterizing it, but the evidence is now pretty strong that China’s approach to very, very intense social distancing has really paid off in terms of reducing transmission. The WHO mission came back confirming that, and, from what I’ve been able to learn, it really is true. That’s encouraging, but at the same time, other countries are discovering that they have lots of cases and don’t have those kinds of measures in place. I also don’t think that China is out of the woods. I don’t think any country can keep that kind of social distancing in place indefinitely. In fact, China, from what I understand, is trying to go slowly back to work, so there’s a risk that it will resurge there. But in many parts of China it seems like, for the moment, it’s really under control.
GAZETTE: You’ve been quoted you as saying you expect between 40 percent and 70 percent of humanity to be infected with this virus within a year. Is that still the case?

LIPSITCH: It is, but an important qualifier is that I expect 40 to 70 percent of adults to be infected. We just don’t understand whether children are getting infected at low rates or just not showing very strong symptoms. So I don’t want to make assumptions about children until we know more. That number also assumes that we don’t put in place effective, long-term countermeasures, like social distancing for months at a time which, I think, is a fair assumption. It may be that a few places like China can sustain it, but even China is beginning to let up.


ようするに現在はいまだ「子供は大丈夫だから、子供が大丈夫なわけではない」の段階だよ、これがまともな倫理的態度だ。

安倍曰くの「休校要請については、直接、専門家の意見を伺ったものではない。判断に時間をかける暇がない中において、私の責任において判断させて頂いた」を科学的でないと批判する阿呆インテリがあとを絶たないが、これこそ専門家の多様な見解をこのいま早急に統合せねばならない真の政治的決断というものだ。

そしてこの決断が死者を減らす効果があるのは間違いない。