世界も生もあまりにバラバラ!
ドイツのあの教授を訪ねてみるさ
きっと生をつなぎ合わせて
完全無穴の体系を構築してくれる
ナイトキャップと寝巻の襤褸を
世界の穴に詰め込むってわけさ
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Zu fragmentarisch ist Welt und Leben!
Ich will mich zum deutschen Professor begeben.
Der weiß das Leben zusammenzusetzen,
Und er macht ein verständlich System daraus;
mit seinen Nachtmützen und Schlafrockfetzen
Stopft er die Lücken des Weltenbaus.
ーーハインリヒ・ハイネ「帰郷 Die Heimkehr」LVIII『歌の本』
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精神はナイトキャップである
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ヘーゲルの「精神は骨であるDer Geist ist ein Knochen」…これは、ハイネに従って「精神はナイトキャップ」と言いうる。(ムラデン・ドラーMladen Dolar, Hegel and Freud, 2012)
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精神はウイルスである
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ヘーゲルの『精神現象学』における骨相学分析からの最も名高い「精神は骨である Der Geist ist ein Knochen」の事例がある。これは、われわれにおいては、「精神はウイルスである」とすべきである。人間精神は、人間という動物の寄生虫の一種ではないか。精神は、自己自身の再生産のためにヒトを搾取し、ときにヒトを破壊するように脅すのでは? そして、精神の媒介者が言語である限り、われわれが忘れるべきでないことは、最も本源的レベルで、言語はわれわれが学び従わねばならない「人間を支配する」機械的な何ものかである。
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遺伝子学者リチャード・ドーキンスRichard Dawkins は(人から人へ遺伝子のようにコピーされて進化する社会的文化的情報としての)ミームは「心のウイルス」だと主張した。すなわち、人を増殖手段として使用して、人の心を「植民地化する」寄生的実体だと。この考え方はレオ・トルストイ起源に他ならない。トルストイは通常、ドストエフスキー に比べてはるかに関心をもたれない作家と見做されている。ドストエフスキー の実存的不安と対照的に、どうしようもなく時代遅れの現実主義者で、基本的には近代性においてトルストイの場処はないと。
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だが、おそらくトルストイの十全な名誉回復の時が来ている。彼の独自の芸術観とより一般的にいえばその人間観は、リチャード・ドーキンスのミーム観と共鳴する。あるいはダニエル・デネットの「ヒト族は、感染した脳をもつ種族であり、数多の文化的共生物の宿主である。そしてこれらの主要な支柱enablersは言語として知られる共生システムである」(Daniel Dennett, Freedom Evolves, 2004)ーーこのパッセージは純粋なトルストイではないか?
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トルストイの人生論の基本的カテゴリーは感染である。人間は、情動負荷的な文化的要素によって感染された受動的な空虚の媒介であり、それは、伝染性バクテリアのように、個人から他の個人へと蔓延する。トルストイはここで始末をつける。彼は情動的感染の蔓延と真の精神的自律性を対立させない。彼は英雄的なヴィジョンを提案しない。彼は伝染性バクテリアから逃れるために自己教育して成熟した自律的な倫理主体となることを提案しないのである。唯一の闘争は良い感染と悪い感染とのあいだの闘争である。キリスト教信仰自体、感染である。もしーートルストイにとってーー良い感染であっても。
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たぶんこれが現在進行中にのウイルス流行から学びうる最も不穏な教えである。自然がわれわれをウイルスで攻撃するとき、それはわれわれ自身のメッセージをわれわれに送り返している。そのメッセージはこうである。「あなた方が私にしたことを、私は今、あなた方にしている」。(ジジェク, MONITOR AND PUNISH? YES, PLEASE! , 2020, 3.18)
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地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 Wouldn't the best thing for the earth be to organize slowly so that two thirds of the people will die? (ジジェク『ジジェク、革命を語る DEMANDING THE IMPOSSIBLE』2013)
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ウイルス学者から出発した中井久夫はつぎのように言っている。
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地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006年初出『日時計の影』所収)
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「精神はウイルスである」ということは、結局、言語を使用して生きていかざるを得ない「ヒト族はウイルス」だとしてよいだろう。
ジジェク曰くの「精神は、自己自身の再生産のためにヒトを搾取し、ときにヒトを破壊するように脅すのでは? そして、精神の媒介者は言語である」を「言語はヒトを破壊する」と読み替えて以下の引用群を読んでみよう。
ーー実にドンピシャである・・・ このヒトというウイルスは、とくに20世紀になってあまりにも急激に増えすぎた。 地球という自然が反乱を起こしてもやむえないね、ーー「あなた方が私にしたことを、私は今、あなた方にしている」 |
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二〇世紀には今までになかったことが起こっている。(……)百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。
しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)
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心配の種の第一は高齢化社会である。しかし、これは必ず一時である。一時であり、また予見できるものは耐えられる。行政は最悪の場合を考えて対策を立てるものである。当然そうあるべきであり、行政特有の習性でもある。最悪の場合が実現の確率がもっとも高いとは限らない。高齢者が働けるように医学も行政も考えて突破するのが正道であるが、平均寿命自体が減少に向かうかもしれない。嬉しいことではないが、2030年といわれるピークまでに流行病が絶無である確率のほうが少ない。(中井久夫「日本の心配」神戸新聞、1997.3.05)
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