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2020年3月24日火曜日

医学は科学か


「医学・精神医学・精神療法は科学か」中井久夫、2002年より
医学は科学か
もし、人体研究を医学というならば、それは科学である。すなわち、人体にかんする一種の生物学である。しかし、それは「疾患に関係しているところを特に詳しく調べる人体生物学である」という付記を加えても医学であろうか。それは「医学的生物学」medical biology である。わが国では「基礎医学」というが、医学の(科学的)基礎というつもりなのだろう ーーbasic medicine あるいは fundamental medicine という語句は外国ではめったに使われない。わが国で俗に「グルント」というものはドイツ語では Grundriss der Medizin [医学の基礎]という。

では、何が足りないのであろうか。犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療するべきであり、犯罪は防止するべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」であって、これを総合科学と呼ぼうと提唱しているーー「科学」という言葉を使っているではないかといわれそうだが、欧米語のサイエンスはラテン語の scientia に発して「知」ということである。「総合知」と訳したほうがよかったであろう。ちなみに「科学」は日本最初の「哲学者」西周の造語で「科」は「分科」ではなく「法則」の意味である。「法則の定立を目指す学」ということだ。

この指摘は確かに一つのポイントである。では、倫理と科学といずれが優先するであろうか。科学的であっても反倫理的であれば医学ではない。逆に、治療を目的とするものであれば、現に用いられているように経験論的(非宗教的、非近代的)医学たとえば中医学であってもよい (実際、手術後や心労後の消耗に対する近代医学はせいぜいビタミン剤であって中医学の方剤だとえば補中益気湯に及ばない)。難治褥瘡や歯周病の治療にはしばしば健康食品プロポリスが有効である。こういう裾野を含めて、医学とはまず倫理的なものである

しかし、それでは不十分であると私は考える。少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」でなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「総合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。

医学も何かを相手に将棋を指している。その相手は何であろうか。ある人は (「病い」)といい、ある人はそれは抽象概念の実体化であって相手は「病める人間」であるという。「生物学的・心理学的・社会学的人間」だともいう。「人間の集団」だと疫学はいうであろう。「実存的なもの」も排除できない。実に、医学は「相手は何か」と問いつめられると困るものではないだろうか。医学には他の「学問・技術」にはない、混沌・未分化的なものがある。いずれにせよ相手は複雑な系であり、たえず予想を裏切るように動いている。

その相手が将棋と違うのは、治療者と対等で同質な主体ではない点である。しかし、一方だけを主体として、 相手を徹底的に対象化することができない点は同じである。相手を固定すなわち対象化しようとしては裏切られるような力動的関係にあるというべきか。それは戦争術に似ている。この力動的関係の混沌・未分化性は、その「未発達性」のためではないと私は考える。すなわち、人間が人間を相手としているからである。医学においては相手を生かすために、戦争術においては(戦争術は殺人術でないから)相手の立場を失わせるために。メスをふるう外科医は自身も創傷や腫瘍を持つ可能性を抱えている。痛みうる人間が医学、精神医学をやり、犯罪を犯しうる人間が犯罪学をやる(将棋や碁はルールの設定によってこの混沌を限局しようとしている。これらは元来戦争術のシミュレーションである)。こういう対象化しえないものを相手とする学があることは確かである。それは近似的な、おおむねこうすればおおむね成功するであろうという「定石」から始まるが、意外にも「捨て石」が死活問題を解決したりして、有限時間内には完全に言語あるいは数式化できないものである。つまり、時には何が正しいかを言えなくとも、ある時間の範囲に何ごとかをしなければならない場合がある。すなわち、直観や熟練を必要とする。最後には言語化が不可能に近いものをも含む。医学はなぜ独学で学べないかをよく考えてみよう。

科学は、この不確定部分を最小にしようとする。それが医学の科学的部分である。最小化しようとするのは、しかし、科学の専売ではない。経験、熟練、直観も、不確定性を最小にしようとする。飛行機の操縦術や航海術と同じである。

では、ありとあらゆる場合を予想して方策を立てれば、医学はついに科学となるであろうか。すでにチェスではコンピュータがしばしば名人を負かしているではないか。この場合、チェスをするコンピュータは科学によって作られたものだが、科学を離れて、「相手」のある領域に入り込んでいるのである。実際、負けたり勝ったりするではないか。

いや、コンピュータをもっと進歩させれば、チェスで必ず勝つであろう。いや今は勝てない碁や将棋でも必ず勝てるであろうという議論があるかもしれない。これは科学の勝利であるーーと。それは科学の勝利ではあるが、科学になったのではない。そういうコンピュータができて、それが普及すれば、そのゲームは魅力を失い、やがて消滅するであろう。つまり、問題そのものがなくなってしまう。その前にコンピュータ同士を闘わせるかもしれないが、これはコンピュータ設計者同士の闘いであり、ローマ人が猛獣あるいは剣士を闘わせて見物していたのと少し違う。

将棋や碁と違って、医学でも戦争術でも、完全なデータを得ることはできない。一般に、データを得るためには対象を多少なりとも破壊しなければならないからである。また、データは必ず時遅れである。不完全なデータ(微候)から推論して事態を先取りしなければならない。「徴候知」の独自性はイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグと私によって独立に抽出された。そして、医学という実践は、相当に安定した部分をも含むけれども、それでも特異体質などに裏切られることになる。状況に応じて変化するスキルをも含む目標、いや目標を越えた大局観に関するスキルも必要である。先端的な部分では、職人的なスキルと戦略家のような決断の比重が大きくなる。たとえば、微細な血管が入り組んでいる部分の手術である。ここでは技術(テクニック)と戦術(タクティックス)と戦略(ストラテジー)のヒエラルキーが確実に術者の中で動いていることが必要である。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



「技術」「戦術」「戦略」のヒエラルキー
「技術」technic は当面の問題を端的に解決するスキルであり、たとえば「個々の手術手技」である。「戦術」tactics は「技術」をいつどのように組み合わせてどこに適用して、当面の状況を好ましい方向に導くかという複合的スキルである。たとえば、手術の適応と時期を決定し、実践の途中においても逐次変更――時には中止――する手術者のスキルである。「戦略」strategy は、この手術がその人の人生全体をどのように好ましい方向に変え、QOLと寿命とを積分した値を最大にするように考えて、いつどのような手術をどこで誰によって行うかという、全体的・大局観的スキルである。この三段階は、スキルの五段階と微妙にからみあうが、「ビギナー」段階においても、すでに存在し、次第に複雑なヒエラルキーを作ってゆく。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」

スキルの五段階
ドレファス兄弟は,「スキル」に5段階を区別し,人工頭脳は第3段階までしかやれないとした。ドレファス兄弟の5段階とは次のようなものである。

(1)第1段階(ビギナー):「文脈不要の要素よりなる,文脈不要の規則に従うスキル」である。自動車運転でいえば,アクセルとブレーキ,ギアの入れ換えの規則である。この規則は,文脈(コンテクスト,前後関係)によって変わらない(コンテクスト・フリー)。

(2)第2段階(中級者):「状況依存(コンテクスト・デペンデント)の要素」を加えた規則に従うスキルである。雨に濡れた路面を夕方走るときにはどうするか,といったスキルである。

(3)第3段階(上級者):熟練が進んで,要素の数がミラーの法則をこえて増したときに,これに優先順位をつける能力を加えたスキルである。すなわち,状況をつくっている要素を組織し,目的を明確に意識して,優先順位に従って,これを処理するスキルである。

4)第4段階(プロフェッショナル):直感的に全体が見え,将来が見通せ,タイミングを選んで,最良のときに,最善の方法で対処できるスキルである。これは過去の経験の蓄積をからだが覚えていることである。運転でいえば,とっさの状況にたいしてからだが動いて危険を回避するように処理できるスキルである。とっさの状況が解消すれば,第3段階に戻って的確に処理できる。コンピュータ化された航空機でいえば,自動操縦装置が任務を放棄する状況である。とっさに手動に切り換えて,危機を脱しなければならない。

(5)第5段階(エキスパート):この段階では,スキルは身について,意識的に判断しなくなる。運転でいえば,車と一体になり,車を動かしているのではなく,車幅感覚をもって自分が移動しているという状態である。歩行ではほとんどの人がこの状態に達している。このときには流れに乗っている(フロウ)という感覚と,乗馬で「鞍上人なく,鞍下馬なし」といわれる無我の状態に達している。日本では,技能者に「何々の神様」といわれる人がたくさんいるが,そういう人の境地である。

スキルの5段階は,技法(テクニック)-戦術(タクティック)-戦略(ストラテジー)という,目的の3階級と関係している。(中井久夫「精神医学」と「精神看護」の出会い」)