前回、「医学は科学プラス倫理」、「医学とはまず倫理的なものである」等々の記述がある中井久夫の「医学・精神医学・精神療法は科学か」を引用した。
ところで、現在進行中のコロナウイルスの専門家たちが強調する「医療崩壊を防ぐ」とは科学判断ではないだろう。とすると倫理判断ということになるのか。その面もいくらかあるだろうがどうも少し違う気がする。
もし倫理判断を「患者の急増を防ぐ」「死者を減らす」等々にとっておくとするなら、医療崩壊防御は「何を欲するか」という医療共同体判断ではないか。
この前提で次のスキーマを提示しよう。
ーーこの3区分は、カント的には上から理性判断(真偽)、道徳判断(善悪)、趣味判断(快不快)にほぼ相当するが、ラカン的に言えば、重要なのはそれぞれの環の重なっている部分があることである。
ボロメオの環において、想像界の環(赤)は現実界の環(青)を覆っている(支配しようとする)。象徴界の環(緑)は想像界の環(赤)を覆っている。だが象徴界自体(緑)は現実界の環(青)に覆われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST? 、1999)
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ーーもっとも上図は、たとえば医学判断がラカン的な現実界だとはまったく言えず、あくまでラカンのボロメオの環を利用しただけだということに留意されたし。
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この記事で医療共同体といういささか奇妙な用語を使ったのは、蓮實の次の発言が念頭にあったためである。
プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』1988年)
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