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2020年3月7日土曜日

ラディカル馬鹿


敢えて言わないでおいたが、また繰り返しているな。

その柄谷ってのは当時のキリスト者の「ルサンチマンにみちた陰湿な心性」の文脈のなかにあるんだぜ、まったく逆の捉え方をしているようだが。

キリスト教がもたらしたのは、「主人」たることを放棄することによって「主人」(主体)たらんとする逆転である。彼らは主人たることを放棄し、神に完全に服従(サブジエクト)することによって「主体(サブジエクト)」を獲得したのである。明治の没落士族をキリスト教が震越させたのは、この転倒にほかならなかった。たとえば、西田幾多郎や夏目漱石のように禅によって、すなわち「精神を無関心なものとする」ことによって煩悶をのりこえようとした者がいなかったわけではない。しかし、やはりキリスト教だけが彼らの「新生」を可能にしたといってよい。

注目すべきことは、このような「主体」確立の弁証法でありダイナミズムである。近代的な「主体」ははじめからあるのではなく、一つの転倒としてのみ出現したのだ。十九世紀西洋の近代思想をどんなにとりいれても、このような「主体」は出てこない。平板な啓蒙主義にはこの転倒が欠けている。今日の眼からみて「近代文学」とみえるものが例外なしにキリスト教を媒介していることは、影響といったような問題ではない。そこには「精神的革命」があったのであり、しかもそれは「時代の陰」、すなわちあるルサンチマンにみちた陰湿な心性から出てきたのだ。しかも、「愛」が語られたのは、まさに彼らからなのである。

彼らは「告白」をはじめた。しかし、キリスト教徒であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう一つの権力意志だからである。告白はけっして悔俊ではない。告白は弱々しい構えのなかで、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。(柄谷行人「告白という制度」『日本近代文学の起源』)

このあと、内村鑑三を引用しての「批判」ーーある意味で嘲弄ーーがあるがね。ま、でももうやめとくよ。

代わりに以前も示したスピノザを再掲しておくよ、「見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい」とね。

また、私は、大衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同時に不可能であることを知っている。最後に、大衆が自己の考えを変えようとしないのは恒心ではなくて我執なのであること、また大衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされることを知っている。ゆえに、大衆ならびに大衆とともにこうした感情にとらわれているすべての人々に私は本書を読んでもらいたくない、否、私は、彼らが本書を、すべてのものごとに対してそうであるように、見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい。彼らは本書を見当違いに読んで自らに何の益がないばかりか、他の人々に、――理性は神学の婢でなければならぬという思想にさまたげられさえしなかったらもっと自由に哲学しえただろう人々に、邪魔立てするだろう。実にそうした人々にこそ本書は最も有益であると、私は確信するのに。(スピノザ『神学・政治論』1670年序文)


ひょっとしてキミが好きらしいラディカルポピュリズムってのは、ラディカル馬鹿ってことかい?

ま、ラディカル馬鹿ってのはどこにでもいるから安心したらいいさ、たとえば、上に内村鑑三の名をだしたから、若松英輔っていう内村研究者のツイートをあげとくよ




いまじゃ、円高と円安の区別もついてないヤツが大学の教師やってる時代だからな。


90円になったら日本は世界に評価されてるってシラナイやつっているんだな、いまどき。1ドル=100円の相場が200円、300円になるとき、円の暴落、つまり日本は見切りをつけられたって言うんだがな、ダイジョウブかな、このカトリック信者さん。







で、このセンセ、文学教授だけではなく三田文学編集長やら読売読書委員やってたりするらしいからな。ビックリ仰天しちまったよ。