このブログを検索

2020年4月10日金曜日

詩人どもは放逐されるべきだ

以下の訳文はネット上に落ちているもので、『LESS THAN NOTHING』2012にも同様の内容が記されている(厳密に同じかどうかは比較していないが)。

今のような危機の際にはとくに詩人たちは注意しなければならない、ということが言いたいためにここに掲げる。


ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所ーーいかにして詩は民族浄化と関係するのか」
"The Poetic Torture-House of Language: How poetry relates to ethnic cleansing" by Slavoj Žižek Originally Published: March 3, 2014 
プラトンの評判には傷がついている。詩人どもはポリスから放逐されるべき、と主張したからだ。――いや、ユーゴスラビア分裂体験を経た今から判断するなら、これはむしろ良識あるアドバイスだったというべきか。旧ユーゴスラビアで民族浄化のお膳立てをしたのが、詩人たちのさまざまな危うい夢だったからだ。スロボダン・ミロシェヴィッチ〔Slobodan Milošević〕がナショナリストの熱狂を「操作した」というのは当たっている。――だが操作に役立つ材料を彼に届けたのは詩人たちだった。詩人たち――誠実な詩人たちであって、汚職に手を染めた政治家連中ではない――が事の顛末の発端にいたのは、遡ること70年代から80年代初頭のことだった。彼らは好戦的なナショナリズムの種を蒔き始めた。セルビアに止まらず、他の旧ユーゴスラビア圏にも。ユーゴスラビア分裂後のわれわれが知ったのは軍産複合体ならぬ、双子の人間に擬人化された軍韻複合体だった。――ラドヴァン・カラジッチ〔Radovan Karadžić〕とラトコ・ムラジッチ〔Ratko Mladić〕のふたりだ。カラジッチは政治と軍事両面の冷酷非道なリーダーというだけではなく、詩人でもあった。彼の詩を駄作の一言で片づけるわけにはいかない。――精読に値する。というのもその詩は民族浄化が働く様を解き明かす鍵となるからだ。以下に続くのは、「……イゼ・サライリッチ〔Izlet Sarajlić〕に捧ぐ」の献辞で認知された無題詩の最初の数行である。

余の新たな教義へと改宗せよ民衆よ
余が未だ余人が所有したことのないものを与えよう
余が君たちに峻烈とワインを与えよう
頑なにパンを食べぬものの腹は余の太陽の光が満たすだろう
民よ我が信仰に禁忌は皆無なり
太陽を慈しみ、太陽で喉を潤し、
見つめるがいい、太陽を、いくらでも
それから今度の神はなにも禁じはしない
ああ余の呼びかけに従いなさい同胞よ民よ民衆よ

超自我がモラルに関するさまざまな禁止を執行停止にしているというのが、今日の「ポストモダン」ナショナリズムの必須不可欠の特徴だ。ここで、情熱をもって民族に同一化を果たせば、神なき(secular)現代グローバル社会の混迷を極める不確実性のなかにも、鉄板・定番の価値や信念を取り戻せる、というような常套句は、180度転換させられることになるだろう。〔なくなったものを取り戻せる〕というよりは、ナショナリストの「原理主義」は、秘密のままだがほとんど丸見えのよきにはからえ!(You may!)の操作詞を務めるのだ。今日のナショナリズムのこうした倒錯した疑似解放的効果、つまり猥褻なまでに寛容な超自我が社会的‐象徴的法の明解な理路網(the expicit texture)をどのように補完するのかをしっかりと認識しなければ、われわれはナショナリズムの真の力学をとらえ損ない、その過失の咎を自らに科すことになる。

『精神現象学』にて、ヘーゲルは密やかな止めどもなき「精神の編み上げ」に言及している。それはイデオロギーの座標系(the ideological coordinates)に水面下で変化を加える働きであり、人の目には映らないも同然の働きである。だがそれはのちになって前触れなく爆発的に露見(explode)し、みなを驚愕させる。これこそかつてユーゴスラビアだった場所で70‐80年代に進行していた事態だ。その結果、80年代後半にくだんの事態が外へと爆発的に露見するに及んだときには、すでに手遅れだった。イデオロギーに対する旧来型の共通認識はとことん腐りきってから、自壊した。70-80年代のユーゴスラビアは、漫画に出てくるお馴染みの猫のようなものだった。その猫は絶壁を超えても歩き続ける。猫が落下するのは、ようやく下を向いて、足元に確固たる地面が存在しないことに気づくときなのだ。〔80年代後半に登場する〕ミロシェヴィッチこそ、われわれすべてに断崖を実際のぞき込むよう仕向けた第一人者だった。

カラジッチとその仲間たちを出来の悪い詩人だと片づけてしまうのはまったく造作もないことだ。もっとも、他の旧ユーゴスラビア圏諸国(と問題のセルビア)には「偉大」とか「本物」だと目される詩人や作家がいた。だが彼らもナショナリストの計画にしっかり加担していた。それにオーストリア人のペーター・ハントケ〔Peter Handke〕はどうだろう。現代ヨーロッパ文学の一流作家であるが、スロボダン・ミロシェヴィッチの葬儀にこれ見よがしに参列していたではないか。一世紀ほど前のこと、ドイツにおけるナチズムの台頭に話が及んで、カール・クラウスはこんな皮肉を言った。DichterとDenkar(詩人と思想家)の国ドイツは、RichterとHenkar(裁判官と死刑執行人)の国になってしまった、と。ひょっとするとクラウスの言うようなどんでん返しに、われわれはそれほど驚くべきではないのかもしれない。それから、軍韻複合体がバルカン半島の名産品だという幻想に耽らないよう、最低限ハッサン・ンゲゼ〔Hassan Ngeze〕には言及しておくべきだろう。ルワンダのカラジッチとでもいうべきこの人物は、自分の主宰する雑誌『カングラ』においてツチ族に対する差別的憎悪を雑誌を挙げて拡散し、彼らの虐殺を声高に要求していたのだから。

だがこうした詩と暴力のつながりは偶然によるものなのだろうか? いかにして言語と暴力は接続するのだろうか? 「暴力批判論」において、ヴァルター・ベンヤミンは次のように問題提起している。「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」 彼の出した答えは、そのような係争の非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼のある「内輪の人間どうしの関係において」である、というものだ。「暴力を行使せず人間同士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」このテーゼは主流の伝統に掉さしている。その伝統では、言語や象徴界という広く普及した発想は、和解や仲裁の媒体となる発想のことであり、無媒介かつ剥き出しのまま対峙させる暴力的な媒体の発想とは対極にある、争いを好まない共存共栄の発想のことだ。言語のなかでは、互いに直接暴力をふるうのではなく、われわれは畢竟するに、議論をぶつけ、言葉を交換する定めにある。――そんなやりとりは、それが人の攻撃に向かう場合でさえ、最小限、相手の立場を〔事前に〕承認するという前提に基づいている。

とはいえ、人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマにしたてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイデガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガーのモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求められる。「フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage」(Lacan, S3, 16 mai 1956)

1976年から1983年にかけてのアルゼンチンにおける軍事独裁によって、文法上の異常、つまり動作動詞を受動態で用いる上での新用法のようなものが生じた。当時、幾千もの政治左翼活動家・知識人が失踪し、二度と目撃されることはなかった。つまり彼らは軍事政権から拷問を受け、殺されたのだ。だが軍事政権は彼らの命運について何も知らないと突っぱねた。彼らのことは「失踪した」ものとして話に上るわけだが、そこで当該の動詞は単に彼らが〔自発的に〕失踪したという意味ではなく、動作動詞の他動詞的用法、つまり彼らは(軍部の諜報組織によって)「失踪させられた」という意味で使われた。スターリン政権内でも、同様の常識外れの屈折が「失脚すること」(to step down)という動詞に作用した。高い地位にあったある幹部(nomenlatura)が(概して、健康上の諸事情のため)その地位から失脚した、と公式に声明が出された場合でも、誰しもが本当は当人が幹部組織内の派閥間闘争に敗北したせいだということを知っているものだから、当事者は「失脚させられた」と民衆は言ったのだ。またしても通常は影響を蒙った人物が動作主と認められるはずの行為(彼は失脚した、彼は失踪した)が再解釈されて、不透明な黒幕(another agent)が暗躍した帰結(秘密警察が彼を失踪させた、幹部連の多数派が彼を失脚させた)だと解されてしまう。では、われわれはそれとまったく同じ要領で、人間存在は語るのではなく語られるのだ、というラカンのテーゼを解すべきではないのだろうか? 〔ラカンのテーゼの〕肝となっているのは、人間存在が「あたりで語られている」ということ、つまりほかの人間が話す話題となっているということではなく、〔能動態で〕人間存在が語っている(ように見える)ときにも、共産党の不運な役職者が「失脚させられた」のと同じ要領で、それは〔受動態で〕「語られている」ということなのだ。この相同性が示しているものこそ、〔語る〕主体が住まう折檻所としての言語の位置、「大他者」の位置なのだ。

1976年から1983年にかけてのアルゼンチンにおける軍事独裁によって、文法上の異常、つまり動作動詞を受動態で用いる上での新用法のようなものが生じた。当時、幾千もの政治左翼活動家・知識人が失踪し、二度と目撃されることはなかった。つまり彼らは軍事政権から拷問を受け、殺されたのだ。だが軍事政権は彼らの命運について何も知らないと突っぱねた。彼らのことは「失踪した」ものとして話に上るわけだが、そこで当該の動詞は単に彼らが〔自発的に〕失踪したという意味ではなく、動作動詞の他動詞的用法、つまり彼らは(軍部の諜報組織によって)「失踪させられた」という意味で使われた。スターリン政権内でも、同様の常識外れの屈折が「失脚すること」(to step down)という動詞に作用した。高い地位にあったある幹部(nomenlatura)が(概して、健康上の諸事情のため)その地位から失脚した、と公式に声明が出された場合でも、誰しもが本当は当人が幹部組織内の派閥間闘争に敗北したせいだということを知っているものだから、当事者は「失脚させられた」と民衆は言ったのだ。またしても通常は影響を蒙った人物が動作主と認められるはずの行為(彼は失脚した、彼は失踪した)が再解釈されて、不透明な黒幕(another agent)が暗躍した帰結(秘密警察が彼を失踪させた、幹部連の多数派が彼を失脚させた)だと解されてしまう。では、われわれはそれとまったく同じ要領で、人間存在は語るのではなく語られるのだ、というラカンのテーゼを解すべきではないのだろうか? 〔ラカンのテーゼの〕肝となっているのは、人間存在が「あたりで語られている」ということ、つまりほかの人間が話す話題となっているということではなく、〔能動態で〕人間存在が語っている(ように見える)ときにも、共産党の不運な役職者が「失脚させられた」のと同じ要領で、それは〔受動態で〕「語られている」ということなのだ。この相同性が示しているものこそ、〔語る〕主体が住まう折檻所としての言語の位置、「大他者」の位置なのだ。

通例、われわれはある主体の話がまったく一貫性を欠いている場合、彼/女の内なる動揺、曖昧な感情といったものが表に現れたのだ、と受け取る。これは文学的芸術作品にさえ当てはまることだ。まさしく精神分析的読解の職責は、芸術作品に暗号化された表現の場を見出した内なる心の動揺を掘り出すことではなかったか。だがかくのごとき由緒正しい昔話には何かが欠けている。発話は、トラウマとなるような心的生活を記録したり表現したりするだけのものではない。発話に上るということは、それ自体がトラウマとなるような事実なのだ。ということはつまり、われわれはさまざまなトラウマが登録されたリストに、発話自体のトラウマ的衝撃を乗り越ろうとする発話上の試行錯誤*6を含めてしかるべきだ、ということになる。したがって発話における心のなかの動揺とそれを外へと表現する行為との関係も、〔ナショナリストのイデオロギーがそうだったように〕180度ひっくり返るはずだ。つまり発話は、たんに心のなかの動揺を〔言葉として〕表現/分節するものではない。ある重要な点においては、心のなかの動揺それ自体、「言語の折檻所」の内部に住まっているというトラウマに対するひとつの反応なのだ。

ということは、真実になんとか語ってもらうためには、〔発話の〕主体の能動的な介入を一旦棚上げにして、言語自体に語らせるだけでは十分とは言えない、という所以でもある。――エルフリーデ・イェリニク〔Elfriede Jelinek〕の桁外れに明晰な言葉を借りるなら、「真実を語るためとあらば、言語は折檻されて当然なのだ」。言語はねじられ、自然なものではなくなり、引き伸ばされ、濃縮され、切り刻まれ、ひとつに統合されて当然のものであり、言語それ自体に歯向かうようつくられていて然るべきなのだ。「大他者」としての言語は、われわれが波長を合わせるべきメッセージを携えた知の代理人ではない。言語は常軌を逸した無関心と愚行の場なのだ。言語に対する折檻のもっとも初歩的な表現形式、それは詩と呼ばれている。(ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所ーーいかにして詩は民族浄化と関係するのか」2014年)



このジジェク文は、たとえば谷川俊太郎の次のインタビュー記事とともに読むことができる。


震災後、「言葉」は変わったのか 谷川俊太郎さんから返信
毎日新聞 小国綾子 2013年05月02日
…哲学者、鷲田清一さんは著書「語りきれないこと」で「(言葉は)人と人をつなぐのと同じだけ、人と人を切り離す、もっとはっきり言えば分断する」と書いた。

 私自身、言葉に迷うことが増えた。「絆」「寄り添う」など、安易に使えない、使いたくない言葉が増えていく。

震災後、書けなくなったことはありませんか--質問を書きつづると、谷川さんはファクスで、長い長い返事をくださった。
 
「震災が原因で書けなくなったこと、書きたくなったこと、書かねばならないと思ったことはありません。<言葉を失った>という言葉が新聞、テレビなどのメディア上でしばしば見られましたが、本当に言葉を失ったのなら沈黙するかもっと寡黙になるはずなのに、目についたのはむしろ過剰なまでの饒舌(じょうぜつ)だったと私は感じています。

 私自身は震災後、善かれ悪(あ)しかれ平常心を保っていられたので、普段の生活では饒舌にも寡黙にもなりませんでしたが、私的な日常の言葉と公的な詩の言葉とでは、少々発語の次元が異なるので、詩に関しては寡黙に傾きました」(俊)

…「絆」という言葉が使えなくなった、と打ち明けたことにも、言葉を返してくれた。

「たとえば<愛>という言葉の中身が、年齢とともに経験を重ねて、私の場合若い頃に比べて深まっていると感じています。同じようなことが震災という言語化し難い大きく深い経験によって、多くの人にたとえば<絆>という言葉に起こったのではないかと考えられます。しかしメディア上で多用されるにつれて、この言葉の中身は急速に軽く薄くなってゆき、個人の心の中ではかけがえのない大切な言葉だったものが、ただの決まり文句に堕していったのも事実でしょう」(俊)

「絆」も「希望」も「寄り添う」も、最初は大事にしたい言葉だったはずなのだ。自問する。大事な言葉は何度も使ってはいけないのか。…

さる左翼運動家が、絆、寄り添うの同義語「つながり」やら「愛」いう語を使ったツイートを連発している自称詩人の言葉に「気持ちが悪い」「糸井重里的ポエム」と批判しているのを見たが、この運動家の言いたいことはよくわかる。批判の対象の自称詩人かつ文学教師は谷川とも対談しているようだが、ひどくニブイのではないかとわたくしも言いたくなる。

ジジェクの言っていることはもとより、上のインタビュー記事の冒頭にある「(言葉は)人と人をつなぐのと同じだけ、人と人を切り離す、もっとはっきり言えば分断する」ということに対する感性がひどく欠けている人物のように思えていたしかたない。

たとえばこの期に及んで、公衆に向け次のたぐいの詩を連発したり読書のすすめをしている文学教師ってとっても気持ち悪くないかい?


大切な人が
困っているとき
金銭を送る
だが 私たちには
言葉を贈ることも
できる

若松英輔(『本を送る』)


ま、なかには言葉を贈られてよろこぶヒトもいるさ、でもまとも系なら次のように考えると思うがね



と、豊崎由美さんを引用したら、自らに跳ね返ってくる次の二文を思い出しちゃったよ。

あの事故をなかったように、朝日(新聞)の読者に向け、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない。 (吉田秀和、朝日新聞、2011年6月)
私はどこか日本の学者を信頼して、それが体験の基礎になっていた。官僚も、政界も、はてなと思うことはあっても、終戦の時と同じく、列車が走り、郵便が着くという初歩的なことで基盤にゆえなき信頼感があったのであろうか。私が20余年続けたこのコラムを休むのは、その代わりに考えきれない重しのようなものが頭の中にあるからである。(中井久夫、最後の「清陰星雨」神戸新聞 2012-03-24)

ま、弱小ブログだから(ある程度は)許されるとは今のところは思っているけど、そうであってもかりに欧米のようになりはじめたらサヨナラするより他なくなるだろうな。